気分の呪縛
─志賀直哉
「単純に考えるべきだろうね。結局、パーフェクトということはないんだからね。その逃げ道がなかったら、人間キツイよ。オレは楽して勝て、と言うんだ。苦労して勝つな。楽して結果だせ。笑って結果だせ。これだけやってますから、なんて言うな。自分が好きでこの商売やってんだから、どうやったらいい結果が出るか、一生懸命考えればいいんだよ。真剣に考えたら何らかの糸口はでてくるって。絶対でてくる。でてこないのは体を動かす量は多くても、考える量が少ないんだよ。やる量は多いけど何も考えていないんだな」。
落合博満
「絶好調−−そんなときは、一シーズンに数えるほどしかありませんが、とにかくよくボールが見えるのです。ボールの赤い縫い目が回転しながら近づいてくるのがはっきり目に見えるような気がするときがあります。こんなときは、どんなボールに手を出してもみんなヒットになってしまう。相手の投手がびっくりするようなとんでもない球だって、打てるのです。しかし確率の高い、つまり10割を打ちたいと思うようなバッティングをするには、その絶好調時にいかに我慢するか、なのです。ほんとに打ちたいボール、つまりヒットになる確率の高いボールがくるまでいかに待つか、ということです。打席に入ると、自分のストライクゾーンを狭くしてボールを待っているわけです。調子がいいときは、その狭いストライクゾーンどころか、うんとはずれたボール球を打ってもヒットになるので、そこの我慢が難しいのです」。
掛布雅之
 志賀直哉は、日本近代文学史において、「小説の神様」と呼ばれているが、近代が「神の死」を背景にしているとすれば、これは明らかに背理である。エラスムスなら、この状況に対して、「私の考えでは、人生は愚女神の戯れにすぎないということ以外の意味は、そこにないと思いますね。……『愚かな者は月のように変わり、賢い者は太陽のように変わることがない』……要するに、人間は愚であって、『賢者』の名は神のみのものだという意味でしょう。月は人間の本性を表わしており、あらゆる光の根源である太陽は、神を表わしているからです」(『愚神礼讃』)と呟くだろう。「神の死」の時代にもかかわらず、志賀を「神」として礼讃していることが日本近代文学をよく物語っている。
 志賀直哉の小説を形成する重要な側面は父との対立だと考えられている。確かに、『大津順吉』・『或る男・その姉の死』・『和解』の中編三部作は父と子の対立、そして和解をめぐって書かれているし、他のいくつかの短編作品にも父の影が色濃く映し出されており、唯一の長編小説『暗夜行路』にしても父の姿が見え隠れしている。
 親がある過程を経て、結果的に、その生き方に至ったとしても、過程を子は目にすることはできない以上、子は親の結論を自分の生の出発点とせざるを得ない。親にとっては、それは必然的帰結かもしれないが、子には恣意的な偏りにすぎないように映る。子の親への批判は、親にとっては今までかかって形成されてきた自分の生の否定へと感じられてしまう。親子対立のほとんどの原因はこうした認識の違いであり、そのような親と子の問題が変形して、それぞれの人生そのものに影響を及ぼすことになっていく。フロイトは、およそすべての人間の心的な問題は親子の問題の変形したものであるとして、それをエディプス・コンプレックスの名で呼んでいる。
 フロイトの精神分析に対する批判は詳細かつ周到に行われているが、その最も有力な一つとしてジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの試みがあげられる。彼らは、『アンチ・エディプス』において、フロイトに対し、父や母と子との関係のほうが社会的人間関係のヴァリエーションではないかと問い返す。親子関係はその構成員によってのみ自己完結しているのではなく、社会的・歴史的背景に影響されて、形成される。エディプス・コンプレックスはメタ歴史的概念ではないのであって、フロイトは、男らしさや女らしさと同様に、異性愛の家族的道徳形態を強制するブルジョア・イデオロギーに加担してしまっているというわけだ。
 フロイトに対するポピュラーな非難は二つあり、一つは、彼は、本来、社会的問題であるはずのものを個人の側に帰してしまった反動だというものと、もう一つは、人間現象の非合理の役割を拡大した神秘主義者だというものだが、E・H・カーは、『歴史とは何か』において、歴史研究でのフロイトの意味を二つに要約している。
 第一に、人々が自分の行動の動機だと言ったり信じたりしているものによって実際に彼らの行為を十分に説明することができる、と考えられて来ましたが、こういう古い幻想にとどめを刺したのがフロイトなのです。(略)第二に、フロイトはマルクスの仕事を補いながら、歴史家に向かって、自分自身を、歴史における自分の地位を、また、彼のテーマや時期の選択、事実の選択や解釈を導いて来た動機−−恐らくは、隠れた動機−−を、彼の視覚を決定している国家的社会的背景を、彼の過去観を形作っている未来観などを吟味することを勧めて来たのです。
 フロイトの功績は、人間の言動の無意識的な源泉を顕在化させ、意識や合理的探求への知識と理解の厚みを増した点にあり、それは知性の領域の拡大であって、自己の環境や背景を解明し、さまざまな問題点を解決する方法論を増大したことである。フロイト以前は意識の秩序とその原因を意識自身に求めていたのに対して、フロイトによれば、意識はそれ自体によって秩序づけられているわけではなく、無意識がそれを行っている。意識の構造や規定要因は、原則的には、解明不可能であり、その欠損をわれわれは言語によるフィクションで埋める。患者は現在の生き難さから過去を反復しようとする。すなわち、現在の関係の様態を表現するのに過去の記憶を呼びよせる。精神分析は現在の自らのあり方を患者に是認させる方法にほかならない。それには解釈学や意味論ではなく、詩学的アプローチが望ましい。生物全般は自己を保存し、さらに成長しようとするのであり、リビドーは世界を解釈し、世界と相関関係にある根源的欲望の仮説である。精神分析は厳密な理論と言うよりも、基本的には、フロイトが古典的な作品を説明の比喩としているように、ミュートスにほかならない。それは、フロイトが体系的な理論の著作を叙述していないことからも、強調される。
 従って、フロイトは、エディプス・コンプレックスによって、デモクリトスのごとく、「人の慣わしで甘さ、人の慣わしで辛さ、人の慣わしで暖かさ、人の慣わしで冷たさ、人の慣わしで色、しかし真実にはアトムと空虚」ということを意味していたにすぎなかい。フロイトは、デモクリトスと同様、徹底とした合理主義者であると同時に、快楽主義者である。デモクリトスによれば、「魂が静かにやすらかに」生きていくこと、すなわち「愉快」に基づいた「幸福」が人生の目標である。「人間が幸福であるのは、身体によってでもなければ、金銭によってでもない。むしろ心の正しさと知恵の多さによってである」し、「幸福」は「人生をできる限り多く楽しみ、できる限り少なく苦しんで送ることである」。客観秩序などはなく、ただリビドーがこの秩序を「人の慣わし」としてつくりあげる。フロイトは、精神分析において、意識を論理によってではなく、価値によって基礎づけたのであって、無意識は一つの価値である。エディプス・コンプレックスは論理的と袂をわかった倫理的な概念である。精神分析は、フロイト自身の夢についての分析が告げているように、患者自身が生き方を探求する方法である。その治療とはたんなる社会適応を意味するのではない。精神分析家が患者の話を聞くのは、過去をどのように物語化しているかを知ることで、未来へのイメージを秘めた現在の心の姿を把握するためである。精神分析は想起と言うよりは、忘却の方法であり、忘却は回復力にほかならない。「それで結局、いやこんな議論をするまでもなく現実には、父はやや居心地悪く存在し、母は子どもを外から眺めてはらはらする、そんなものだろう。むしろ、そんなもんだと思っていれば、家庭幻想が肥大することもなかろう。父はなにかの規範になろうと無理することもなかろうし、母はすべてを包みこもうなどと苦労しなくてすむ。そして、その間に、子どもが彼の領分として、管理の抑圧に耐える堡塁を、彼の心の中に築いてくれることを、期待するよりあるまい。それは、子の領分に属するのであって、父も母も干渉することはできぬ。父にとっても母にとっても、そしてなにより子にとって、『父とはなにか』とか『母とはなにか』と、問い直さねばならないのは、不幸なことである。父が自然に父であってしまい、母が自然に母であってしまい、そして子は、父とか母とかを意識しないですむ、それは古きよき時代の幸福にすぎないのだろうか」(森毅『父と母と、そして子と』)。われわれに必要なのはフロイトが示した単純化への意志である。精神病や神経症患者は生きられた哲学的パラドックスであって、彼らに必要なのは健康なる単純さにほかならない。ややこしさは冗談のレベルにおいて不可欠である。この世で複雑さは冗談のためにある。まわりくどさを排除して、冗談がなくなるとしたら、それこそ笑えない冗談だ。「真理の標識としての論理的精確性、透徹性(『真であるすべてのものは、明晰判明に知覚される』、デカルト)。このことでもって世界の機械論的仮説が望ましいものとされ信ずべきものとされている。しかしこれは、『単純さが真理の標識である』という一つの粗雑な取りちがえである。事物の真の性質が私たちの知性とこのような関係にあるということは、どこから知られるのか? −−その関係は別様のものではなかろうか? 私たちの知性に権力と安全の感情を最も多くあたえる仮説が、この知性によって最も優遇され、尊重され、したがって真と表示されるのではなかろうか? −−知性はおのれの最も自由な最も強い能力や性能を、最も価値多いものの、したがって真なるものの標識として立てる……」(ニーチェ『権力への意志』五三三)。
 しかしながら、父と子の対立をモチーフにしているはずの三部作に、父と子の対立の原因ははっきりと書かれていない。『大津順吉』や『或る男・その姉の死』において、『ドラえもん』ののび太くんと何ら違いのない主人公は、父に対して、何の説明もなく「不快」をつのらせていき、『和解』では主人公はいつのまにか「調和的な気分」になって父と和解する。主人公の父との対立が「不快」から始まり、「調和的な気分」によって和解してしまう。なぜ主人公はこうなっていくのかがまったく読み手にはわからない。その舌たらずゆえに、読み手を、「調和的な気分」にさせることなく、「不快」にさせてしまう。例えば、『或る男・その姉の死』(一九二〇)での主人公の足尾鉱毒事件に対する父への反発にしても、それ以前から父と子はすでに対立しているのであって、足尾鉱毒事件はきっかけにすぎず、両者の対立は世代的もしくは思想的なものに根ざしてはいない。ほぼ同時期に発表された漱石の『道草』(一九一五)と比較すれば、そのことははっきりとする。“Where we born, we must die-whence
we come, whither we tend? Answer! ”という青年期特有の根こぎ感を『断片』に記していた漱石の『道草』においては、家族間の対立が思想的・世代的なものとして明確に描かれ、海外留学帰りで大学教師の主人公健三の「不快」はたんに「不快」としてのみ放出されず、ザ・フーの『マイ・ジェネレイション』ばりに、自己に対しては存在として、家族に対しては自己の相対性の認識として、ホイヘンスの唱えたエーテルの存在を否定したアインシュタインの相対性理論のように、つねに二重に対象化されている。
 『道草』に対して、『和解』(一九一七)では、「不快」はただ「不快」としてのみ放出され、次のような記述を目にするとき、父と子の和解の原因が読み手には不明瞭であると言わざるを得ない。
 自分は自分が段々に調和的な気分になりつつある事を感じた。これでいいかしらと云う気も少しはした。然し今まで不調和よりは進んだ調和だと考えた。そして自分も好人物の好運ばかりを何時迄も書いてはいられないと云うような事も考えた。
 自分の調和的な気分は父との関係にも少しずつ働きかけて行った。然し或時、例えば妻と一緒に上京して電話で祖母を見舞うと、丁度父が留守だから直ぐ来て呉れと母が云う。自分達は電車で直ぐ麻布へ向う。そして門を入ろうとすると其所に立って待っていた隆子が駆けよって来て、小声で「お父さんがお帰りになったのよ」と云う。自分達は門を入っただけで誰にも逢わず、直ぐ引っ返して来る。こう云う場合、流石に自分の調和的な気持も一時調子が変る。然し又或る時、人の口から、父が自分の妹達などの事でジリジリと苛立って気むずかしい事を云う噂などを聴くと、父のそういう気分の根が猶且つ自分との不快にある事を考えずにはいられない点で、そして今の自分が自分だけで調和的な気分になりかけているのにという気のする点で、段々年寄って行く父の不幸なその気分に心から同情を持つ事もあった。
 「自分」の父への「同情」は奇妙である。と言うのも、「自分」が「同情」しているのは父その人自身ではなく、同じ「気分」の呪縛にあると彼が思いこんでいるので、よけいなお世話のごとく、父に「同情」しているからである。「気分」を離れて、「自分」は父に「同情」することはないのだ。こうした説明からは父と子の対立の原因は「気分」であると了解するほかない。自分も世界も「不快」や「調和的気分」という意味を表現する記号である。「気分」があたかもエーテルのごとくに実体化されている。三部作の主人公はつねにわけもわからず、いつのまにやら「不快」になり、どういうことだか、知らないうちに「調和的な気分」になる。こんな文章を読んでいると、読者は自分がマルクス兄弟の『吾輩はカモである』の中にいるかのごとく錯覚してしまうだろう。『道草』の場合、話が進むにつれて、主人公の何らかの精神的な工夫や成熟の跡が見られる。漱石の悩みは誰もが一度は直面する極めて常識的なものであるが、彼はそこでとどまらず、さらに押し進めて、彼独自の真の問題を見つけている。『道草』の主人公に対して、三部作の主人公の性格ははなはだ素朴であり、社会的・人間的・問題的な要素に乏しい。予備知識なしで、ブライアン・フェリーの『アヴァロン』やデヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』から彼らのデビュー時の姿を想像できるものは少ないだろうというのに、志賀直哉は晩年から若いときが容易に頭に浮かぶ。その三部作はただ主人公の「気分」の移行に染めぬかれており、いくら読み進んでも、長い間のさまざまな出来事によって、主人公には成長する機会を与えられているはずにもかかわらず、創意工夫や成熟というものが一切見られない。
 中村光夫は、『志賀直哉』において、『暗夜行路』について次のように述べている。
「『暗夜行路』は主人公の気持ちの中の発展を書いた。」という意味のことを作者は云っていますが、事実この位、「主人公の気持ち」だけが徹頭徹尾書かれている小説もないのです。(略)
「暗夜行路」は時任謙作の成熟を「主題」として扱いながら、彼の裡に生きたことがかえって作者の精神の成熟を妨げるという奇妙な不幸を生んだ小説です。
 しかし一言で云えば青春の表現を人生の表現ととりちがえた錯誤にぎりぎりまで生きたという事実が、作者にこの不幸をもたらしたとしたら、彼がここで無意識のうちに払つた犠牲はどこかでその作品に生きている筈です。
 そしてこの作者の意図をはるかに越えて、彼の精神の養分を吸いつくした小説の花がどこに開いている筈です。ふと、それはさきにふれたように謙作の肉感性、もっとはっきり云えば彼の瑞々しい性慾の表現にあると思われます。
 思想としては幼稚な妄想しか抱けず、精神に「発展」ではなく、ただ環境の変化に基づく「移転」があるだけのこの青年も、こうした内面の空白と表裏する肉欲の衝動の生々しさにかけては、我国の近代小説に比類のない存在です。
 志賀の『暗夜行路』が、「肉欲の衝動の生々しさにかけては、我国の近代小説に比類のない存在」かどうかは別として、中村の指摘するように「主人公の気持ち」だけが徹頭徹尾書かれ、精神の「発展」を欠き、ただ「移転」があるのは確かである。『道草』が「人生の表現」だとすれば、『暗夜行路』は「青春の表現」にすぎない。『暗夜行路』や三部作だけでなく、志賀のほとんどの作品においても「気持ち」や「気分」といった類いの言葉が覆い、一切の精神的な「発展」が欠け、ただ環境の変化に基づく「移転」だけがある。「不快」から「調和的な気分」への「移転」構造は、志賀が学生時代の一九〇四年に書いた『菜の花と小娘』において、初歩的なレベルであるが、すでに表われている。鳥の気まぐれによってある世界に投げこまれた菜の花が小娘に連れられて、本来の場所、故郷へと帰る。つまり、現存在が本来の場所から非本来の場所へ気紛れによって投げこまれ、それを「共同存在」とともに本来の場所へと帰還する。ハイデガーにとって、カタツムリは認められても、ヤドカリは許しがたい。しかし、彼には、ヤドカリと、貝殻を変えるときも、一緒に移動するイソギンチャクの「気持ち」はわかるまい。さらに、『ある一頁』(一九一一)にはそういう「移転」構造が明確に見られ始める。それは、東京を離れることにした主人公が以前よい気分を味わえた京都へと家出するが、病気になり、帰京するという小説である。つまり、「不快」が病気の状態として、そして「調和的な気分」が健康の状態として、主人公の主体責任を離れて、扱われている。また作品と作品の関連の中にも「発展」はなく、一貫して「移転」があるだけである。『大津順吉』から『和解』、そして『或る男・その姉の死』と進むに連れて何か発展があったかと言っても、状況が変化しているだけで、精神的発展は見あたらない。「不快」から「調和的な気分」への「移転」が論理的・思想的にまったく問いつめられていない以上、この「不快」と「調和的な気分」という二つの気分とも主人公の認識や思想から派生したものではない。「不快」と「調和的な気分」の関係は、志賀の分身とも言うべき登場人物において、内的に結びついてはいない。精神における弁証法的あるいは永劫回帰的な発展や成長、成熟は志賀には無縁である。
 作品だけではなく、志賀の行動そのものもその「移転」構造は変わらない。アフリカの独裁者なみに、志賀の行動はいつも行きあたりばったりで、計画性というものはまったくない。家出にしても、女中との結婚騒ぎにしても、行きたいところがあるからでもなく、その人を愛しているからでもなく、「不快」な今の状態から逃げ出したいという理由で行われている。「不快」が消失してしまうと、すぐに、さんざん人をふりまわしたあげく、もとに戻り、その上、「不快」になると、また同じことを繰り返す。何かを経験することなく、家出、結婚と事象こそ変わっても、判で押したように、そうした円環行動を繰り返している。
 柄谷行人は、『私小説の両義性』において、志賀の作品が気分に基づいていることに焦点をあて、私小説の新たな読解を試みている。柄谷は「志賀直哉に対する評価がつねに両義的であらざるをえないのは、彼がこの意識の狭さ・貧しさにもかかわらずではなく、逆にそのためにこそ確固たるものを実現しえたところにある」と述べて、私小説的世界の狭さの意味を両義的にとらえている。しかし、志賀の作品が、「意識の狭さ・貧しさ」のために、「確固たるもの」を達成しているとは言いがたい。「確固たるもの」を獲得するには、自己のあり方を卑下も誇示もせず、事実として是認することが求められるが、「不快」を放出し続ける志賀には「狭さ・貧しさ」をあるがままに肯定する意志がまったくない。
 この指摘が誤謬であるのは、正岡子規の『病牀六尺』における次の記述が示している。
 病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪に触る事、たまには何もなく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして……
 子規を読むと、彼が「意識の狭さ・貧しさ」にこだわらず、飄々としており、それはそれでいいではないか、生きることは何と幸福なことだろうかとわれわれには伝わってくる。「意識の狭さ・貧しさ」ゆえに「確固たるものを実現しえた」のは知性の逞しさを持った正岡子規であって、「意識の狭さ・貧しさ」にまったく無自覚な志賀直哉ではない。さらに、柄谷によれば、志賀の「不快」は、率直に言って、父だけに限らず、その他あらゆる人や事物に向けられているのだが、つねに気分が先行しているため、気分が向けられる対象の性質や認識、他者の性格から気分が生まれてくるのでもない。それは、その都度、対象や他者に主体責任がないまま、季節がめぐるように、「不快」から「調和的な気分」へと「移転」してしまうのである。しかも、気分が先行している以上、「不快」の場合にしろ、「調和的な気分」の場合にしろ、その「移転」は志賀にさえも主体責任がない。彼の「不快」にしても、「調和的気分」にしても、それらは自分と世界の気分である。その「移転」にはやはり主体的な理由が、ときとして、見られる。『和解』によると、父と子の対立から和解に至る過程は次のようなものである。主人公、すなわち志賀は、以前から対立していた父親と一番目の子供の死に対する処遇をめぐってさらに対立の度合いを深めるが、二番目の子供が生まれ、その子の名前に祖母の名前をつけたころから、父親と和解する。父と和解するのは、子供に祖母の名前をつけたことによって、自分自身は父の前の世代へと戻ったのであり、父は志賀の世界から追放されてしまっている。祖母が自分の子供であるならば、父は存在していない。父がいなくなれば、自分自身を苦しめている父との対立などはなくなり、自分はここちよくいられる。父に対する「不快」は自分自身の存在を縮小させるものであるが、子供によって自らの存在が確保されてしまった以上、父に対する「不快」を持つ必要がなくなっている。父への忘却的克服ではなく、論理操作が『和解』の帰結である。志賀の私小説にある構造のイデオロギーは自らの一切の運動性を排除した予定調和的な自己承認にすぎない。運動は矛盾をもたらすというわけだ。志賀は「愉快」や「快感」ではなく、「調和的気分」という言葉を用いているが、気分が自分だけでなく、世界との統一性を帯びているかのごとく感じられるというのは独善的イデオロギーである。志賀への賛美は独善性の嗜好と同じだ。
 父との和解の後に、すなわち父に対する「不快」が消失した後に書かれた『暗夜行路』では母と祖父の子供の設定で主人公を登場させている。これは父親否認と呼ばれる妄想だが、こうした妄想は実際の父との葛藤・対立から派生するのではなく、一種の現実否認である。根底にあるのは、自分の存在意義の消失である。父と志賀の関係は捕鯨関係者とグリーン・ピースの関係よりもわずかに悪い程度の対立であり、父に対する否認は風が吹けば桶屋がもうかる程度の任意に選びとられた対象であって、心的に現実を否認し、脅かされている自分であることが確保できればよい。志賀にとって父は余計な存在であるが、同時に、志賀にとっても志賀自身が余計なものなのである。志賀の小説の出発点には自分の存在意義に関する根本的な否認がある。確かに、幼年期から少年期にかけての父や祖父母そして実母と継母との関係が志賀の健康な心的な成長を疎外し、歪んで形成したかもしれないが、実際の関係そのものに還元することは完全には不可能である。複雑な家族関係を持ったからといっても、志賀のような自分自身を突き放すことができなくなるとは限らない。例えば、坂口安吾も親と対立していたが、彼は志賀的な私小説を書くことは決してない。志賀にとって、「不快」は自分の存在性と結びつき、「不快」に襲われると、自分であることが危機に瀕していると感じとる。その「不快」を晴らすために対象を探し、それが消えてしまうまで、別にヨーデルを歌って欲しいとは言わないが、呪いの言葉として放出し続ける。小林秀雄は、酒癖が悪く、酒が入ると、すぐ誰彼問わずからみ始め、この状態に陥ることから、志賀を評価したとも言われている。気分が意識を最後のところで規定する何ものかであり、それは構造や実在としては把握できないものである。結果と原因はつねに逆に認識される傾向にある。フロイトは高所恐怖症の患者は高いところにいるから怖いのではなくて、高所は結果にすぎないと指摘しているが、それは正しいだろう。志賀にとって、意識を規定するもの気分は、エーテルがそうであったように、論理的に実在としては認識不能であり、実在としてだけあるものである。世界には目に見えない気分というエーテルが満ち満ちており、それは人に判断を伝える媒質の何ものかというわけだ。
 志賀の「不快」は、父への反抗は「愛情表現」であると『或る男・その姉の死』で述べられているように、むしろ好きなものに対して強く発せられるとも考えられる。そうしたことは志賀の殺意が直接的に父に向かうことがないこと、すなわち作品の中では志賀は一度も父殺しを書いていないことから明らかである。殺されるのはつねに自分の家族ではなく、主人公の従属者たち、すなわち『濁った頭』の駆け落ちした女中であり、『剃刀』の客である。「不快」そのものが、逆に、志賀に現実感を与えている。『暗夜行路』の前身であり、父に抵抗して自分自身の気持ちを貫徹するという話だった『時任謙作』が放棄されたのは、志賀は父に対して貫徹する積極的な何ものを持っていないということを意味している。志賀はあたかも対立することが目的であるかのように父に反発する。父に対する「不快」は何か建設的なものを生み出すものではなく、むしろ排他的・破壊的なものである。志賀は自分の外にまったく別の生活を持った他者が存在し、それがこれまで自然に信じてきた感性や価値や内的な世界を一瞥もしない世界の外力として痛感させられるとき、「不快」を感じる。志賀の「不快」は自分と他者の間の疎遠な距離を一撃のうちに消滅させようとするサディスティックな衝動の結果として生ずる。それは、『或る朝』の志賀をなじる祖母の言葉を借りるなら、「あまのじゃく」である。ケーシー高峰のように『そりゃないぜセニョリータ』と歌いたいところだ。
 青年期は、しばしばユース・カルチャーがサブ・カルチャーであるように、過去の自分自身や家族を含めた周囲に反発することによって、自己を形成しようとする。それは作用=反作用というニュートン力学的なものであって、青年期のものはネガティヴ・セルフである。
 志賀において、気分はさまざまなものに規定力を行使するため、気分と感覚・知覚も一致する。志賀は気分に強いられて感じたり、見たりするので、志賀にとってのみそうである余分なものや不明瞭なもの、混乱したもの、曖昧なものは感覚や知覚によって解釈されない。志賀の作品をリー・トレビノが読んだならば、「ある日ニューヨークのレストランに入ったんだ。するとウェイターがなかなか来ない。ようやく来たかと思ったら、灰皿を雑にポンとテーブルに投げつけて『何にするんだい?』って聞くから、僕は思わず『別のウェイターを注文したい』って言ってやったんだ。奴がきょとんとしているから『お前はウェイターのプロなんだろう? だったら客が楽しく、おいしく食事できる時間をつくるのが仕事。そのやる気のない態度は、とうていプロだとはいえない。外にたくさんウロチョロしている失業者と交代してやったらどうだい?』そう言ってやったんだ。私はゴルフのプロ。だから客をたっぷり楽しませるだけの技術と成績とサーヴィスをするのさ」と書き足してしまうだろう。
 しかし、志賀は、『和解』において、次のような幻覚の体験を書いてしまう。
 特別の場合の他は墓の前ではお辞儀をしない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じた頃のある理屈からきた習慣だったが、墓の前で只ぶらぶら歩いているうちに、他の場所ではとうていそれ程は出来ない近さと明瞭さで、その墓の下の人が自分の心理に蘇って来る。
 自分は祖父の墓の前を少時く歩いていた。その内祖父が自分の心理に蘇って来た。その祖父に対して自分には「今日祖母に会いに行きたいと思うが」という相談するような気持が浮んだ。「会いに行ったらよかろう」と直ぐその祖父が答えた。自分の想像が祖父にそう答えさしたと云うにしては余りに明らかに、余りに自然に、直ぐそれが浮んだ。それは夢の中で出会う人のように客観性を持っていて、自分には如何にも生きていた時の祖父らしかった。自分は祖父のその簡単な言葉の裡に年寄った祖母に対する祖父の愛撫をさえ感じたような気がした。そしてその時自分の心は不快から明らかに父を非難していたにもかかわらず同じ自分の心に蘇っている祖父には少しも父を非難する調子はなかった。
 志賀直哉は『世界の料理ショー』のグラハム・カーではないから、コーディネーターのスティーヴに話しかけているわけではない。心霊現象に関するテレビ番組を制作している制作局なら泣いて喜び、つのだじろうをゲストに呼び、絶叫するようなナレーションをかぶせた二時間のスペシャル番組を制作してしまうところである。あるいは、『肝っ玉母さん』の京塚昌子が、毎晩、死別した夫の仏壇に向かって話しかけている姿を思い起こすかもしれない。ここで想像は知覚と同一視されている。シンナーや麻薬、覚醒剤の常用者などが見る幻覚とはこうした知覚と想像の同一視である。と言うよりも、知覚は想像によって覆われ、想像が想像として扱われていない。このように気分は自分自身の願望だけにとどまらず、誰かからの声として聞こえてくる。志賀にとって、想像は絶対的な性格を帯びた道徳的な判断として感じられている。志賀の願望は誰かの同意によって主観的なものではなくなるが、この声は合理的・理論的ではないから、客観的なものではない。かといって、それは、願望の形をとり、絶対者に対峙していない以上、信仰のレベルにあるわけでもないのである。また、カントの定言明法のように有無を言わせぬ「なんじ……すべし」という当為の形をとるものでもない。むしろ、それは意識の側からではなく、存在の側から聞こえてくる声である。幻覚とは存在が意識を、想像が知覚を規定している様子なのだ。こうした想像が知覚と同一化が起こるのは、もしくは存在することがそのまま本来的になるのは、自己と他者の分化を拒む状態にあるからである。
 フォーテス・マイヤーの『祖先崇拝の論理』によると、祖先崇拝とは、隣接する世代を結ぶ制度的関係の中で権威にかかわる要素、すなわち制度的身分において故人と生存する子孫の間に生じる儀礼関係である。生前の死者の性格・特徴や身分の軽勝者との個人的な関係が祖先崇拝に影響を及ぼすということはない。祖先は死を境に、個性を喪失し、集合的な権威の源泉へと変容する。祖先を祭る義務および権利を持つ子孫の性格も問題にされない。祖先崇拝は死者崇拝と異質である。祖先崇拝は血縁関係を意識した親族集団の成立と密接に関連している。それは近代生物学的ではなく、制度的に共有されている。祖先の力は、親族を超えて、作用しない。親族ではない死霊への信仰、あるいは親族の範囲を超えた英雄の崇拝とは区別される。ただし故人は死を契機に、自動的に祖先の地位を獲得するわけではない。ある特定の期間に渡っていくつかの儀礼的な手続きを経て、初めて、祖先となれる。アルノール・ヴァン・ジュネップは、『通過儀礼』において、「分離」・「過渡」・「統合」の三つの儀礼を有している葬制を通過儀礼の一つとして把握している。死体に対する制度的な処理を行い、服喪期間には共同体から離れさまざまなタブーに従い、喪明けの儀礼によって復帰する。死は個人的な実存の問題ではなく、共同体的な存立を脅かす要因と見なされ、葬制は共同体に生じる死による一時的な混乱を修復する秩序再生装置である。葬制は祖先を死霊から区別する手続きである。従って、祖先となる権利を持たない場合もあり得る。例えば、乳児が亡くなったときは、祖先となる儀礼的手続きがとられない地域は多い。祖先は、幸福と安泰を保証してくれるだけでなく、崇拝を怠ると不幸をもたらすというアンビヴァレントな感情を持つ。つまり、祖先信仰は制度的関係を神聖化し、共同体の継続化・安定化の制度である。ルネ・トムが『構造安定性と形態形成』において提唱したカタストロフィ理論はこうした祖先崇拝に適応できる。
 自己と他者の間が未分化であるのは、『ハムレット』に対する反感として書かれた『クローディアスの日記』の次のような記述からも明らかである。
 其内疲労から自分は不知吸い込まれるように何か考えながら眠りに落ちて行った。自分はそれを夢と現の間で感じながら眠りに落ちて行った。そして未だ全く落ちきらない内に不図妙な声で自分は気がはっとした。眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然し其時直ぐ魘されているのだと心附いた。いやに凄い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出さうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその喉を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。残忍な様子だ。残忍な事をした……もう仕て了ったと思うと殆んど気違いのようになって益々厳しく絞めてかかる、其の自身の様子がはっきりと考えられるのである。(略)
 翌朝が何となく気づかわれたが、兄は魘された事を知らぬ様子で其日の狩の計画などを自分に話していた。自分はそれで安心はした。然し其想像は其後もどうかすると不図憶い出された。其度自分は一種の苦痛を感ぜしめる。
 『クローディアスの日記』は新劇が演じた『ハムレット』に対する反感として、原典にあたらず、書かれている。クローディアスは一度でも兄を殺そうと思ったことはないが、兄の夢の中で兄を殺したと感じている。ここでは自己と他者の区別がまったくないと同時に、想像が知覚としてとらえられている。自己は自己であり、他者は他者であるという意識の自己同一性と自己連続性が成立する以前の状態にある。これは痴呆症の老人によく見られる症状である。自己と他者の区別は見ることではなく、手でつかむことによって生じる。志賀の作品には見ることはあっても、手でつかむことが欠けている。志賀は手でつかむことなく、見ることによって結論が出てしまう。志賀においては、このように自己と他者、想像と知覚の間に区別がなく、意識を規定する関係性が消失し、気分がそのまま存在になっている。
 さらに、志賀において、想像はすぐさま知覚となり、『和解』からの引用のように、知覚と想像の一致は気分を道徳的なレベルにまで高めていくことになる。
 シオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』をモチーフにした『范の犯罪』において、子供がほんとうは自分と妻との間に産まれたのではないかという想像が知覚と合一し、それで苦悩したあげく、あるとき、その妻をサーカスのナイフ投げで殺してしまった范という男は、裁判官と次のようなやりとりをしている。
「私は後で考えてぞっとしました。私はできるだけ自然に驚きもし、多少あわてもし、又悲しんでも見せたのですが、若し一人でも感じの鋭い人が其処にいたら、勿論、私の故とらしい様子を気づかずには置かなかったと思います。私は後でその時の自分の様子を思い浮かべて冷汗を流しました。−−私はその晩どうしても自分は無罪にならなければならぬと決心しました。第一にこの兇行には何一つ客観的証拠のないという事が非常に心丈夫に感ぜられました。勿論皆は二人の平常の不和は知っている。だから私は故殺と疑われる事は仕方がない。然し自分が何処までも過失だと我を張って了えばそれまでだ。平常の不和は人々に推察はさすかも知れないが、それが証拠となる事はあるまい。結局自分は証拠不充分で無罪になると思ったのです。其処で、私は静かに出来事を心に繰返しながら、出来るだけ自然にそれが過失と思えるよう申立ての下拵えを腹でして見たのです。ところがその内、何故、あれを自身故殺と思うのだろうか、という疑問が起って来たのです。意前晩殺すという事を考えた、それだけが果して、あれを故殺と自身ででも決める理由になるだろうかと思ったのです。段々に自分ながら分らなくなって来ました。私は急に興奮して来ました。もう凝っとしていられない程興奮して来たのです。愉快でたまらなくなりました。何か大きい声で叫びたいような気がして来ました」
「お前は自分で過失と思えるようになったというのか?」
「いいえ、そうは未だ思えません。只自分にも何方か全く分からなくなったからです。私はもう何もかも正直に云って、それで無罪になれると思ったからです。只今の私にとっては無罪になろうというのが総てです。その目的の為には、自分を欺いて、過失と我を張るよりは、何方か分らないといっても、自分に正直でいられる事のほうが遥かに強いと考えたのです。私はもう過失だとは決して断言しません。そのかわり、故意の仕業だと申す事も決してありません。で、私にはもうどんな場合にも自白という事はなくなったと思えたからです」
 范は妻を殺したが、それは過失でも故意でもなかったとだけ言っているのであって、自分が「無罪」かどうかは主張してはいない。范のしたことは自分を強いる「気分」に従っただけであり、それ以上の理由づけは不可能である。過失であるとか故意であるとか無罪であるとかといったことは、范にとっては、疎遠で抽象的なものとしか感じられない。范は、自分の中でこの犯罪について堂々めぐりを繰り返した結果、面倒になったかのように、「どんな場合にも自白という事はなくなったと思えた」と言って、主張することをやめてしまう。それは、自分にあったのはただ「気分」に従うことだけだあり、自分の内部をいくら探っても何も出てこない、すなわち自分には恣意性も主観性もないということである。考えてみれば、人間一度や二度誰かを殺してやりたいという考えが、一瞬、頭をよぎったことくらいあるのであって、はっきりとした自白など、誘導尋問によって構成されたものを除けば、存在するわけもない。殺人を妄想することと行うことの間には大きな隔たりがある。強い動機付けか自己抑制をなくしたかのいずれかが不可欠である。この場合、それがナイ。
 范の気分を「不快」にしたのは、実際には、実証抜きの勝手な思いこみであるにもかかわらず、この小説の最後で、殺人罪に問われることなく、『アメリカの悲劇』とは逆に、范には「無罪」判決が宣告される。刑事司法では、確実に有罪を立証できていない以上、妥当な判決であろう。志賀にとっての道徳はカント的に内的な動機や殺意の有無を問うのでも、ヘーゲル的に行為の結果を問うのでもない。主体責任は志賀の道徳では問題ではない。志賀にとって、「気分」は自分自身の意思や感情、思考とはまったく別の自分が死ぬか相手を殺すかという、すなわち自分が存在するかそれともその代わりに相手が存在するかという生きるか死ぬかのレベルにある。存在、すなわち在るということから見るならば、それは自分も他人も同じである。一つの場所に二つのものが存在することはできない。しかし、谷崎潤一郎ならば、平伏して踏まれることを恍惚とした表情で求めるところだが、志賀は自分がその場から去ることをするなんてことはない。気分に従うことは、自己と他者が分化している前提に基づいた法論理上でも社会慣習上でも許されなくとも、『正義派』や『好人物の夫婦』などで社会習慣的・法論理的道徳をアイロニカルに否定しているように、道徳的には正しい。志賀にとって法は気分から見れば二次的なものにすぎない。
 志賀の小説は、法廷という点から見れば、かなり不備が多い。鴎外の『高瀬舟』のように、法廷を描かない方がよかっただろう。実際、この小説は法廷を必要としない。日本の文学者は裁判に参加することはあっても、法廷というものにさほど関心を持っていない。裁判は事件の全体像や真相を明らかにするのではなく、一定の手続きに従い、判例や法令、類推に照らし合わせて、権利・義務の正当性を争う場である。これが裁判の限界であると同時に、意義である。フランツ・カフカの『審判』のような裁判そのものに対する問題意識を秘めた作品は日本近代文学においてはまだ登場していない。法律家自身が考えている以上に、法律の「事実性と論理性」(高橋和己『悲の器』)は根源的である。『范の犯罪』のテーマは、法的な「事実性と論理性」を通して現実を見ることに慣れているアメリカでは、題材にならないだろう。裁判は、主人公にとって、自らの気分を語る場にすぎない。シェークスピアやルイス・キャロル、カフカなどの作品で、裁判は極めて重要な役割を果たしているし、論理学者や記号論者は真理の問題の根底に裁判形式、法廷の論争形式が存在しているという認識を認めている。また、イエスにしても、ソクラテスにしても、ガリレオにしても、彼らの思想と裁判は欠くべからざるものである。ところが、日本文学において、文学と裁判の問題は問われることはあっても、裁判における文学の問題に関しては鈍感である。例外的に、山口昌男は、『歴史・祝祭・神話』において、スターリン時代の裁判を記号論的演劇論によって解釈し、裁判の意味を考察している。
裁判を通して法は実現される。逮捕されることによって法に違反しているか否かが決定されるのではない。裁判で無罪になれば、法に違反していることにはならない。ガリレオは地動説を一方的に弾圧されたのではなく、宗教裁判にかけられた上で、地動説を撤回している。裁判で無罪になったとしても、心理的しこりが残るといったことは、裁判を通じた結果であって、それが前提なのではない。なるほど専門的な知識と資格がなければ、そこに参加することはできず、法と良心に基づく裁判官や検事、弁護士に抵抗はできない。くだされた判決に対して控訴は許されているものの、抵抗は不可能であり、フーコーが言った「知の権力」がそこにはある。狂人や子供、予言者などの言葉は法廷から排除され、そこでは、理性によってのみ、語らなければならない。記録することのできない言葉は、原則的に、使用することはできない。手話は翻訳を前提として、用いることが可能となる。法廷は真相を究明し、犯人に罰を下す場所ではない。問題を解決する場所である。裁判では、信用できるか否かという相対的・経験的原理が最終的な判断基準であるとすれば、何が真実であり、何が虚偽であるかを問うのではなく、どれがより虚偽として洗練されているかを争うことになる。問題の解明はジャーナリストの仕事であって、裁判所のすることではない。
 問題解決という見地から見れば、十九世紀に登場した近代法は「平等」に基づいており、「自由」に対する罪である性犯罪は処罰できない。性犯罪に関しては、フロイトの精神分析に基づいた新たな法意識が求められなければならない。近代法はカント=ヘーゲルの認識に基づいており、マルクス・ニーチェ・フロイトの登場以降にはふさわしくないだろう。性犯罪において、被害者は、必ず、加害者より物理的・社会的に弱い立場に置かれている。フロイトが指摘している通り、性被害はそのことについて沈黙し、トラウマになり、正常な幸福生活を追及する非常な妨げになる。性犯罪は、フーコーは否定したが、その意味で、特殊な犯罪である。にもかかわらず、性犯罪が虐殺とならぶ重犯罪と世界的に認識されたのは二〇世紀後半になってからである。
 志賀作品では、法ではなく、気分が道徳的なレベルに高められており、さらに気分と判断・選択の間に乖離が見られない。気分は感情以前の次元にある以上、気分に従うことは感情的になることではない。気分はそうした恣意性でも主観性でもまったくなく、一種の超越性である。この道徳的判断としての気分は、即物的記述があれば、読み手も「不快」にならず、楽しめるけれども、志賀にはそれがない。
 志賀の道徳は、『剃刀』などで職人を主人公にしているように、職人的なものである。それは、気が向かなければ仕事をせず、出来の悪い製品を自ら叩き壊し、気に食わない客には製品を売らないというような素朴な職人気質である。志賀の私小説はこの職人的な道徳に支えられた小説である。こういう職人気質は人を爆笑させる。ちなみに、田村正和がそういう役を演じている姿を想像してみればわかるだろう。何度も気にいるまで自作を書き直すという職人的な態度を書き手の道徳としていた小林秀雄が志賀を評価したのは当然であり、小林秀雄が志賀に認めた「明瞭な作家の顔」とは職人気質にほかならない。小林秀雄が志賀と同じ姿勢を共有していることは『スランプ』というエッセーを読めばよくわかる。小林秀雄は、国鉄スワローズの豊田泰光に「スランプ」とは何か、と尋ねると、「得体の知れない病気」でそれを抜け出すには「よく食って、よく眠って、ただ、待っている」しかないと答えた。「スランプ」は「不快」であり、「調和的な気分」が訪れるのを「ただ、待っている」しかないというわけだ。ところが、岡崎満義の『中西太と豊田泰光』によると、豊田は、ウイスキーのグラスをなめている小林秀雄を前にして、緊張してほとんどうまく喋れず、しどろもどろになって質問に答えていたのであって、あんな乱暴な言葉遣いなどできるはずもなかったのである。また豊田は探偵小説を読むのと同じ形でプレーを楽しむという「二番ショート推理小説論」を唱えていたように、日本プロ野球史上でも最もクレバーなプレーヤーの一人だった。『スランプ』における豊田は、「荒武者」と呼ばれた彼に関する一般的に流通しているイメージにのって、かなり職人的に脚色したものである。「もう一度生まれ変われたら、今度は、お客さんのために、どんなときでもハッスル・プレーを忘れないようにしたい」と繰り返して言っている豊田によれば、「あとで考えてみると、いいホームランを打ったりすると、この感触を忘れないように、という意識が過剰になって、いつの間にかオーバースイングになっているんです。そこから知らず知らずに打撃が崩れていく。スランプになる。じたばたし、やがてあきらめる。そのうちに思わず肩の力が抜けてポーンとホームランが飛びだして嘘のようになおる。また快打の連発だ。ぼくにはホームランは毒であり、また薬でもありました」。「スランプ」は「不快」ではなく、自己自身によってのみ自己たらんとする状態である。つまり、「スランプ」とは「死に至る病」(ゼーレン・キルケゴール)にほかならない。「スランプ」は、ファンの視線の下、毎日同じことを反復するプロにしか発病しない。小林秀雄宅を訪問したとき、豊田が小林秀雄について抱いた印象は二つあった。一つは、シャーロック・ホームズばりに、初対面にもかかわらず、腰が悪いことを見抜かれ、「人間って、座っているとき、悪いところを必ずかばうから、姿勢でわかるんだよ」と言われたことであり、もう一つは、話していると、ときどき論理のつなぎ目が見えなくなったり言葉の用法が独特で何を言っているのかわからなくなったりして、怪訝そうな顔をすると、すぐに自分は書くのはいいんだが、話すのが苦手だと告げられたことである。豊田は、ほんとうは小林秀雄におもしろい話を聞かせてもらおうと考えていたのだが、プロ・スポーツのプレーヤーにとって観察力は大切なのであるけれども、小林秀雄の観察眼の鋭さに驚嘆すると同時にずいぶんと人の目を気にする人だなと思ったと述懐している。「歴史探偵方法論」を提唱した坂口安吾は、『高校野球』によれば、まだ水戸商業のころの豊田の力強くスピーディーなプレーに感激し、ジャイアンツのスカウトに是非彼をとれと勧めていたが、西鉄ライオンズに入団したため、安吾もライオンズ・ファンになっている。一方、小林秀雄は晩年になって技でプレーするようになった豊田を認めている。これが彼らの差異なのである。
森 ぼくらの若いころでも、「あの人はゴロゴロして」って悪口言うてたけど、その悪口には、、ちょっと羨望の気持ちもあったりしてね。
杉浦 あくせくしてると、逆に格好が悪かったんですよね。あんなにあくせくしないと食えねえのか、甲斐性なしめ、みたいなこと言いますから、下町のほうでは。
職人さんには、出世したくないということを意気地として持っている美学がありましたからね。親方とだけは呼ばれたくないとか、先生と呼ばれるようになっちゃあおしめえよとか、そういう言い方がありましたから。最近ですね、そういうのが聞けなくなったのは。床屋の親方さえ、今は先生ですから。うちの父なんか、床屋が先生になっておったまげた、先生なんて呼ばれて照れないような床屋なんて、行きたくねえとかって言ってますよ。やっぱり、職人は照れがなくっちゃあいけないんじゃないかと思いますけどねえ。
(森毅=杉浦日向子『遊びをせむとや生れけむ』)
 従って、人間と人間の対立・葛藤・摩擦が、または内面が志賀を孤独にするのではない。目に見えない気分が志賀と世界との間にあるとき突然距離をもたらし、またあるとき突然距離を奪う。志賀は「不快」に襲われると、自分の存在が脅かされ、それが解消され「調和的な気分」になるまでとことんこだわり、自分の外部にある他者や対象に対して攻撃的に向かう。それは極端なときは他殺として現われる。「不快」を書くこと自体は、「快感」の場合と同様、十分に意義深いし、また発展性の欠如がそれだけで問題とはならない。志賀の作品がわれわれを「不快」にするのは、彼が「不快」を周囲に発散し続けて「調和的気分」に至るからである。
I can't get no satisfaction, I
can't get no satisfaction
'Cause I try and I try and I try
and I try
I can't get no, I can't get no 
When I'm drivin' in my car, and the
man come on the radio
He's tellin' me more and more
about some useless information
Supposed to fire my imagination 
I can't get no. Oh, no, no, no. Hey, hey, hey
That's what I say
I can't get no satisfaction, I
can't get no satisfaction
'Cause I try and I try and I try
and I try
I can't get no, I can't get no 
When I'm watchin' my TV and a man
comes on and tell me
How white my shirts can be
But, he can't be a man 'cause he
doesn't smoke
The same cigarettes as me 
I can't get no. Oh, no, no, no. Hey, hey, hey
That's what I say
I can't get no satisfaction, I
can't get no satisfaction
'Cause I try and I try and I try
and I try
I can't get no, I can't get no 
When I'm ridin' round the world,
and I'm doin' this and I'm signin' that
And I'm tryin' to make some girl,
who tells me
Baby, better come back maybe next
week
'Cause you see I'm on a losing
streak
I can't get no. Oh, no, no, no. Hey, hey, hey
That's what I say. I can't get no,
I can't get no
I can't get no satisfaction, no
satisfaction
No satisfaction, no satisfaction
(The Rolling Stones “(I Can't Get No)
Satisfaction” )
周囲に発散して、「調和的気分」へと「移転」する程度の「不快」は真の「不快」ではない。何をどうあがいても消えぬ「不快」に苦しめられる姿を描いてくれるのなら読み応えがあるが、志賀の「不快」は家来が御機嫌をとってくれないとふくれっ面をしている白塗りの顔をした志村けん扮するバカ殿様の状態と同一である。志賀の他殺は気分を特権的に持ち出すことによって生ずるのであるが、志賀の道徳とは対他的な関係性から導き出されたものでもなければ、意欲による自己肯定として現れてきたものでもない。それは気分の呪縛に従うか否かということに関わっている。そんなものは浅草のサンバ隊をつれて両国の国技館の土俵を一周することを相撲協会に大目に見てくれと要求するようなものなのだ。志賀にとって、自分が存在することの意味は何かということの根本概念が気分である。
Walk...in silence
Don't walk away...in silence
See the danger...always danger
Endless talking...life rebuilding
Don't walk away
Walk...in silence
Don't turn away...in silence
Your confusion...my illusion
Worn like a mask of self-hate
Confronts and then dies
Don't walk away
People like you...find it easy
Aching to see...walking on air
Hunting by rivers, through the
streets every corner,
Abandoned too soon
Set down with due care
Don't walk away...in silence
Don't walk away
(Joy Division “Atmosphere”)
志賀に於いて、恣意に属さない「気分」と選択・判断・行為・知覚が絶対的な強制力を帯びて合致しているが、宿酔いになると、「気分」が悪くなるからと言って、酒からくるというわけではないだろう。それでは、その「気分」はどこからやってくるのか、あるいは「気分」を可能にしているのは何なのだろうか、そしてそもそも「気分」とは何なのだろうかという疑問がわかざるを得ない。
 マルティン・ハイデガーは、『存在と時間』において、「気分(Stimmung)」に関して、存在論的に、次のように書いている。
 現存在は事実的には、知識や意志をもって気分を制しうるし、また制すべきであるし、さらに制するよりほかないということは、実存の働きの或る種の可能性においては、意欲や認識の優位を意味することでしょう。といってただ、現存在の根源的な在り方としての気分を否認するような誤りに、陥ってはならないのです。つまり現存在は、気分において、あらゆる認識や意欲の働きに先立ち、またそれらの開示の届く範囲をはるかに越えて、自分自身に開示されているからです。そればかりではなく、わたしたちは[さきのように]制するといっても、気分から離れて気分を制するのではなく、そのつど反対の気分から制しているのです。情態性(Befindlichkeit)の第一の存在論的本質性格としてわたしたちが得るのは、情態性は現存在を、その被投性において開示するが、まずたいていは避けながら遠ざかるという仕方で開示するということです。(中略)気分はそのつどすでに世界・内・存在を全体として開示していて、したがってなにかへと自分を向けることを何よりもはじめて可能にするのです。気分づけられてあることは、さしあたり心的なものと関係はなくて、すなわちそれ自身なんら内的な状態ではなく、つまり謎めいた仕方で外に超えでて、そして事物や人物を色づけるというわけではないのです。そこに情態性の第二の本質性格が示されます。すなわち情態性は、世界と共同現存在ならびに実存と、根源を等しくする開示性の実存論的根本様式なのです。なぜならその根本様式そのものが、本質的に世界・内・存在であるからです。
 「気分」は主観と客観という認識論的な概念に先立ち、より基礎的な存在論的レヴェルに属するものである。想像と現象が混じりあっている知覚は主体の確立とともに抑圧されていき、知覚は現象を把握する認識へと変容していく。ときに、人は考えずにしゃべっているが、しゃべった後に自分の考えがまとまるどころか、こういう発想もあるのか、なるほどこれはいい考えだと自分のしゃべった言葉に感動してしまうというように、気分もしゃべることによって規定されている。「気分」は自我主体から自立して存在しているのであり、それは「現存在」が「世界・内」に「存在する」ときの根源的な在り方、「共同存在(Mitsein )」に根ざしている。ハイデガーは「共同存在」に関して「他者がいないということがありうるのはただ、共同存在の中においてだけ、またそれにとってだけなのです」と説明している。ハイデガーの「共同存在」は、他者と自己が未分化の家族、あるいはそれに類似した交友範囲を意味している。「気分」とは自己も他者も存在しない未分化の状態から派生する「共同存在」を必要とし、その関係性からやってくるものにほかならない。例えば、医者と患者は「共同存在」ではない。患者の「気分」に関する発言は、医者に診断してもらう場面で、その手がかりになる。
 他者と自己が未分化の状態の最たるものは親と子、それも社会的なものである言語を覚える以前の幼児と親の関係である。だとすれば、「気分」は言葉を覚える前の頃、「想像界」(ジャック・ラカン)における幼児体験の無意識的な想起、再現にほかならない。気分は再現的象徴なのだ。幼児の無言の反応は自分自身で在ることに直結する。「想像界」において、すべてのものが言語による認識論的な関わりあいではなく、存在そのものに直接的・無媒介的に自分自身と関わっていたため、幼児体験を言語的な記憶として思い出し、再生するのではなく、行為・行動として再現する。幼児の存在に関する反応は言語習得以前である以上、親と子の持つ直接的・無媒介的な対等ではない共同存在によって支えられていなければならないのである。親と言語習得以前の子は対等の関係には決してない。対等な関係であっては、不快感に襲われた子を支えるものがいなくなるからである。けれども、われわれは笑いを忘れてはならない。幼児は泣き叫ぶことの次に笑うことを習得する。人間が動物から逸脱するのはこの笑う段階からである。動物から離れざるを得ない存在だから、笑いを必要とする。幼児の笑いは世界をあるがままに是認する微笑である。こうした笑いは気分と自己、世界と自己との間の乖離の第一歩である。笑いは、自己だけでなく、他者においても、気分を変容させる。幼児の笑いはそれを見る人々の生を励ます。
 気分は天気と極めて関連がある。脳の生理化学作用のために、人間の気分は空気中のイオンによって変化する。例えば、人間は痛みを覚えると、体内には痛みを増加させ興奮を起させる五価のヒドロキシル・トリプトファミンが多くなるが、負イオン化された空気はその物質のレベルを低下させ、痛みが緩和されるのである。正負のイオンの数は、通常、ほぼ等しい。低気圧が近づいてくると、湿った南風が入りこみ、正イオンが増え、にわか雨が降ると、負イオンが増加する。正イオンが多くなると、いらいらしたり、憂欝になったり、ふさぎこんだりする。逆に、負イオンが増すと、自信に満ちあふれ、上機嫌になったりするのである。生物が天気を予測するのはこのイオンの量に反応するためとされている。ある実験で、授業中に気圧が一〇一六ヘクトパスカルよりも上昇しても下降しても生徒たちは眠気を感ずることが明らかになっているけれども、暑いと人間は無気力となると同時に情熱的になる。「冬に反乱を起こさないとは、何と崇高な国民であろう。偉大な革命の日々はすべて七月、八月、九月にある。雨が降れば彼らは旗を持って家に戻る。思想のもとに死ぬ覚悟の彼らでも、思想のもとで風邪をひこうとは思わないのだ」(アナトール・フランス)。だから、天気予報官が文学者になる可能性もまだ残されている。何しろ、日本では、敗戦後、予報官がラジオで「明日は明日の風が吹くでしょう」と言ったり、また、アメリカでは、人類か初めて月面着陸をした一九六九年、六二年の球団創立以来九位二回、最下位の一〇位五回と弱さと監督ケーシー・ステンゲル(一九四九年、ヤンキースを率いたとき、およそ百通りのオーダーを組んで、シリーズまで制覇している)の道化を売り物にしていたニューヨーク・メッツが、全米中があっけにとられている間に、勢いだけで、奇跡的にワールド・シリーズまで制覇したとき、テレビでアナウンサーが「ニューヨーク地方快晴。しかし、ところにより、紙吹雪」と予報したのである。
いかなる境遇に生まれたとしても、その人にとっては最大級に充実した生をおくることは可能だし、それを探り、創出することは至福である。それはほかの現実に生きる人を励ますことにもなる。オープン・スタンスで有名なラリー・ネルソンも、ゴルフの目的はシンプルであるから、覚え方はシンプルなものほどよい、何がなんでもこうしなければならないということではなく、それはスイングの基礎を自分の体に吸収させ、その上で自分にあったスイングを、サインのように、つくりあげることだと述べている。しかし、志賀はどんな境遇に生まれても、ただ「不快」を感ずるだけである。あれこれ読み手のほうが配慮しないと読みが成り立たない志賀の作品ほどある立場から便利なものもないのが教科書に採用される理由だろう。「結局、教科書というものは、生徒のためでなく、教師のために売られている。生徒に学びやすいことを目標にしていると売れず、教師に教えやすくすると売れる。実際に、採択の議論で、『教えやすい教科書』ということばを、何度も聞いた。教師にはとても使いにくく、生徒にはとても使いよい、そんな教科書を作ってみたいとは思うけれど、売れないだろうなあ」(森毅『もう一つの教科書問題』)。
 気分に基づいた志賀の小説の世界には自己も他者も欠けている。「不快」が、客観的相関物を持たぬまま、先行して表われ、それは恣意的な判断ではなく、つねに道徳的な判断・選択を引き連れてやってきて、志賀を強いる。志賀の「不快」には、そして「調和的な気分」にも、自己にも、他者にも、対象物にも主体責任がないから、その理由も原因も誰にも、志賀自身にもわからない。ただ「気分」に存在理由や判断・選択そのものすべてがある。
 志賀は世界が自分中心に回っているという「エゴイスト」ではない。と言うよりも、志賀の世界には、自己の相対性や絶対性といった自己と他者との関係性からの視点が欠如しているため、自己の絶対性や相対性もない。世界と自分は同一であるにもかかわらず、そこに違和感が生じていることから、志賀は「不快」になる。「私は不愉快だった。如何にも自分が暴君らしかった。−−それより皆から暴君にされたような気がして不愉快だった」(『流行感冒』)。志賀が、『和解』において、自分の子供の名前を避けるのもそうしたことによる。通常、名前で呼んだとき初めて他ならぬ自分自身の子供であるということを意識するのだが、競馬の馬にも名前がついており、その名前につられてついつい勝馬投票券を買ってしまったりして、後悔してしまうことも少なくないというのに、世界が自分と同一である以上、「赤子」とはその名を呼ばずにも自分の子供であるということを意味している。自己と自己以外のものの区別がないときは、肯定も否定もない。
 志賀の世界は狭さが保証し、閉ざされた自己完結的なものである。そこには狭すぎて、混乱や錯誤といったものを抱えるほどのヒダがなく、空虚に透明度を持っている。例えば、『網走まで』の赤児や子供と母親のやりとりや『和解』の出産の場面、『城の崎にて』の情景に関する志賀の文の精緻さに驚かされる。しかし、そうした志賀の文は必ずしも視覚的に鮮明であるわけではない。自己と外界との隔りが気分によって埋まるとき、むしろ外界が背後に後退し、稀薄化し始め、志賀と気分は一体となる。志賀の作品のいくつかはルポルタージュ的であるが、本来、ルポルタージュは詩的喚起力を持っている。ところが、志賀の作品には詩的喚起力に欠ける。ロマン主義の詩人たちの想像力を刺激したのはマルコ・ポーロやイブン・バトゥータらなどのルポルタージュである。ロマン主義はルポルタージュによる「風景の発見」(柄谷行人)を反復したものにほかならない。比喩は、想像作用を知覚作用へと転換させて、認識を活性化させるために、使用される。比喩は曖昧にするために用いられるものではない。比喩は関係に関する認識がなければ使えないのであり、それはたんなる類推ではない。詩的とは文体における知覚と想像力、あるいは現象と物自体との相対的関係性による。比喩は現象から物自体を顕在化させる表現なのである。散文の極限化は詩的であるし、詩の極限化は散文的である。
 『城の崎にて』に、志賀の傾向を顕著に示す次のような記述がある。
 或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関で屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角をだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまはるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日程その儘になっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。
 情景に関する記述と「淋しい」とか「静か」という言葉が、短いセンテンスによって、短時間のうちに交互にリフレインされている。リフレインされているにもかかわらず、ここの文はまったく発展していかず、音楽的でもない。センテンスとセンテンスの関係は、三日後のことが突然現在に混入して表われるように、統語法的には秩序だっておらず、断片的に置かれ、流れるように連なってはいない。こうした文は風景を写実しているのでも、自己の心理を表現しているのでもない。それが表わしているのは、情景と自分の間の目に見えぬ気分を実体化すること、すなわち事物と自分の間に空間的に存在する気分を形象化することにある。
 さらに、何度も繰り返し使われている「如何にも」が重要な意味を帯びている。これがもしかりに「とても」という言葉ならば、主観的・恣意的であるが、ここで用いられているのはあくまで「如何にも」である。それは、何かを新たに発見したり何か得体の知れないものに遭遇して驚いたりしているのではなく、過去においてすでに認定されてきたものを再認定しているということを意味している。志賀において命名行為が避けられているのはそのためである。
 『暗夜行路』後編の十九に気分と一体化した次のような有名な件がある。
 疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感じられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んでいくのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、−−それに還元される感じが言葉に表現できないほどの快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のはまったくそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持は全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
 夫婦は、愛情が移ろいやすいものである以上、愛情だけでなく、相手に対するrespectがあって、初めて、その関係が持続するが、志賀にはそれがまったくない。志賀は自分さえいい気分になれていればそれでよいという程度の夫である。『暗夜行路』において、主人公時任謙作は鳥取の大山登山の途中で迎えた曙光を眺め、ドメスティック・バイオレンスな虐待に耐えかねて、従兄弟と肉体関係になってしまったという同情すべき妻直子を許す。この本末転倒さをフェミニストは糾弾しなければならない。自然と人間という区別を主人公は感じていない以上、彼は自然美に浸っているのではない。主観と客観の分裂はここにはもはやないのである。見るものと見られるものの間の距離は失われ、主人公はそこで作用する気分そのものになった。主人公が妻を許すのは、主観的な理由づけでも客観的な理由づけでもなく、それを合一するような気分になった感じがしたからである。
 『和解』においても、同様の自分が気分と合一した記述がみられる。
 自分は誰もいないプラットフォームに一人立って何時までも洋傘を上げている自分を見出した。自分は停車場を出ると急いで帰って来た。何故急ぐのか解らなかった。自分は父との和解も今度こそ決して破れる事はないと思った。自分は今は心から父に対し愛情を感じていた。そして過去の様々な悪い感情がすべてその中に溶け込んでいくのを自分は感じた。
 ここでの実在感覚の特徴は、自分においては見るものと見られるものの区別する自己同一性も、将来と過去を区別する自己連続性もなくなっているという点にある。自分は完全に気分と一体化し、時間も空間も自分の現在の存在の中に溶けこんでいる。すべての運動は自分の現在の存在の中で静止したのである。こういう体験は、二人羽織で七味唐辛子と薬味を入れて、鍋焼きうどんを食べることをしてみれば、経験できる。
 これら三つの引用は、すべてを形象化する描写、色彩を感じさせず、奥行きのない背景、隙間というものの消失、単純明瞭な素朴さに貫かれた一義性、歴史性・人間性の貧しさ、他者や対他・対社会的関係の不在という点において共通している。
 『暗夜行路』の主人公も、『和解』の自分と同じように、どうでもよくなった、すなわちなすがままになったのである。謙作は次のように告げている。「直子を憎もうとは思わない。自分は赦す事が美徳だと思って赦したのではない。直子が憎めないから赦したのである。又、その事に拘泥する結果が二重の不幸を生むことを知っているからだ」。こののように何らかの積極的な解決策を出すことを主人公は放棄したのである。
 こうした解決は遠くを見る、すなわち無限遠に焦点をあわせることによって主人公たちには可能になっている。それは、数学的に言うと、x(実数)軸とiy(虚数)軸によって構成される複素平面での極限の概念を定める問題を考えるため、無限遠を設定し、二次元平面を写像することによって、そこの任意の点は三次元の球の表面に移されるという複素関数に関する解析のテクニックである。こうした方法は実数と虚数をあわせた平面をつくる場合、実数と虚数は裏と表の関係にあるが、大きさのある実数に対して虚数は大きさがないので、極限概念を定める必要がある際に用いられる。さもなければ、ハクション大魔王にでも頼めば、簡単にかなえてくれるだろう。ここで注意しなければならないのは、数学において、中心的絶対性は存在しないということである。と言うのも、中心的絶対性そのものが一つの定義にすぎないからである。同様に、中心の相対性も一つの定義に基づいて設定されるため、相対性そのものも独立して存在していない。しかしながら、その定義もあくまで人為的なものなのである。無限遠に焦点をあわせることによって、対象と自分の間があたかも実体化=形象化する錯覚が生ずるのであり、気分との一体化も人為的なものにすぎない。
 遠くを眺めることによる消極的な解決は『老人』という作品が、『暗夜行路』や『和解』以上に、端的に示している。老人の子供は、実は、妻と他の男との間に生まれた子供であり、彼の家庭は「偽り」である。この老人は遠くを見ることによって、つまり自分が死んだ後に残される家庭を思い描くことによって家庭の偽りを解消してしまう。今に拘れば確かに偽りであるが、老人が死を迎えたときこの家庭は真の家庭となる以上、遠くを見ればこれは真のものになる。近くを見ているうちは、さまざまな不幸や疑惑、迷いを生み出す。山を近くから見れば、木々が突出してでこぼこに見えるが、遠くから見れば滑らかに見える。だが、それも一つの倒錯にすぎない。アランは、『幸福論』所収の「遠くを見よ」で、「抑うつ患者」に遠くを見ることを勧めているが、それは彼らが「ものを読みすぎる人間」だからであり、これは、「自分の意志で自分を自分に指し向け」、「すべての悪い癖を引き出す」ことになり、神経衰弱に陥ってしまい入院を余儀なくされた安吾に適用できても、志賀にはまったく逆効果である。志賀は今ある家庭が「偽り」であるということに拘っている。けれども、「偽り」というのはその出自がどうかということではなく、そこにコミュニケーションがあるかどうかによって決まる。夫婦の間にはお互いに言わなくてもいいこともあるが、志賀の自己完結性が読後の後味を「不快」にさせる。この『暗夜行路』や『老人』だけでなく、主人公が「考えてどうにでもなることではない」と言って、内省や思考を中断し、なすがままになって終わるという作品が志賀には少なくない。こうした解決は現実への働きかけを一切放棄し、つまり、自分の生を否定することによって、ニヒリズムの克服などからはほど遠い、受動的なニヒリズムに陥ったにすぎないのである。「老年の自立というものは、社会人から自由人への離陸。(略)老人として若者に向けてできる唯一のことは、老いのはなやぎによって、加齢への夢を与えることだと思う」(森毅『老人の自然』)。
 ニーチェは、『権力への意志』二四において、「受動的ニヒリズム」に対して「能動的ニヒリズム」を次のように提唱している。
 ニヒリズムは「徒労!」を観念するだけのことではない(略)。それは手をくだすこと、徹底的に滅ぼすことである……(略)。これは強い精神や意志の状態を必要であり、かかるものには、「判断」による否定に立ちどまっていることは不可能である、−−実行による否定がその本性からは生ずる。
 精神や肉体に対して気分を対置することは意味のあることではないし、意識に対して無意識を対置することもまた意味のあることではない。認識に対して知覚や存在を対置することもまた意味のあることではない。と言うのも、われわれはそのすべてが混在した世界を生きているからである。そのすべてを徹底的に否定する、と同時に徹底的に肯定することこそ必要である。徹底的な否定と肯定のそのどちらかが欠けても真の肯定にはならない。生を完全に肯定することこそが必要なのである。結果のみ、もしくは過程のみが肯定、もしくは否定されているが、真の肯定とは生きていること結果を含めたその過程すべてにおいて肯定することである。
 そもそも主観と客観の分裂が矛盾を生むとしても、主観と客観の合一が理想状態であるとは限らない。言語の話せない幼児が気分によって自分の存在を表わすが、それを言語を用いるものが理解する。志賀の第一番目の子供は気分によって存在を表そうとしたが、それを志賀は了解できず、亡くなっている。言語を用いないものによってその存在の危機を理解できるのかということははなはだ疑問である。生きがたさを覚えると、人は言語習得の状態それ以前の状態をクローズ・アップしてしまう。気分は一つのノスタルジアである。気分が確かに自分の存在そのものに関わっているとしても、よりよくなろうという意欲を気分は保持しているわけではなく、たんなる存在の保存を意味している。志賀はたんに現実を排除し、気分に没入している。志賀は存在から出発する以上、何一つ経験しない。と言うのも、経験は意識が自ら裏切らざるを得ないような思いと共にあるからである。志賀は自分の過去と現実を消去してしまったにすぎない。それは現実への一切の働きかけを停止することによる予定調和的な胎内回帰である。自己自身の絶対的なあるがままの肯定ではなく、自己以外の絶対的否定によって生ずるものであり、反動にすぎない。
 中村光夫は、『志賀直哉』において、『暗夜行路』は生活ではなく、生活の抽象化が描かれているのだと次のように述べている。
 そして事実、謙作の魅力がその野生あるいは肉体性にあることについては後に述べますが、しかしだからといって、一部の批評家のように謙作を作者が近代人の衰弱に対置した原始人間などと考えるのは、ひいきの引倒しに類するものです。
 謙作の肉感性は、先に述べたようにその生活の抽象力から生まれたものであり、人間がこのように抽象的な存在になり得るというのは、近代社会を背景として初めて可能なことなのです。謙作のように総てを「純粋に俺一人の問題」に還元し、周囲の人間など認めない生活無能力者が、原始社会に生き得るかどうかは考えるまでもありません。こういう「我儘者」などそこに存在を許されませんし、たとえいたにしろ、すぐに餓死か刑死の運命が彼を見舞ったでしょう。
 志賀の他者としての周囲に対する関心は、マーロン・ブランドの体重への関心程度にすぎない。生活とは生きている過程そのものであり、無駄もあれば、欠如も、剰余も、試行錯誤もある。志賀の作品には社会的な関係そのものが書かれていないが、生活とは他者との関わりの中でなされていく以上、コミュニケーションに基づいていなければならない。生活は自己完結的なものではなく、つねに自分の外側から見られた混乱・曖昧・欺瞞・逸脱にさらされている。ところが、志賀の作品にはこうした不連続的であると同時に連続的な軌跡がない。「私には予てから、そのまま信じていい事は疑わずに信ずるがいいという考があった。誤解や曲解から悲劇を起すのは何よりも馬鹿気た事だと思っていた」(『流行感冒』)。それではなぜ自分はそう思うようになったのかという疑問が志賀は発しようとしない。志賀の視線はそこまでとどかず、「悲劇」とさえ言いきっている。彼はいろいろな出来事と出会うが、一切経験することなく、大きさのない一点に存在することだけに終始してしまったのである。
 志賀を小説家にした原因の一つに内村鑑三のキリスト教との格闘を忘れてはならない。志賀がデビュー作『網走まで』を書きあげるのは、内村のもとから離れた後である。志賀の作品には内村と推測される人物が何度か登場しているように、内村のキリスト教は志賀の私小説にとって不可欠である。内村のキリスト教は厳しい唯一神教であり、無教会主義とも呼ばれる一切の偶像崇拝を退ける精神の主体主義である。『大津順吉』によると、志賀が内村のもとを訪れるようになったのは、自分の家にいた年上の書生に誘われたからであり、その後、内村を慕うようになったのは、「何よりも彼によりも、先生の浅黒い、すべて造作の大きい、何となく恐ろしいようで親しみやすいその顔が好きだった」からである。内村の顔は、志賀によると、「高い鼻柱から両方へ思い切ってぐっと彫り込んだような鋭い深い眼をしている。それがニーチェにもカーライルにもどこか似ている。ベートウヴェンが欧羅巴第一の好男子であるというような意味で、先生は日本第一のいい顔をした人だと私はひとり決め込んでいた」。ルソーやバイロンならまだしも、ニーチェやカーライル、ベートーベンはかつても今も、醜男と言われたことはあるとしても、「いい顔」をしていると評されたことはない。志賀にとって精神が生きた顔として感じられればいいのであって、その対象となる顔がキリストでなくとも、一般的に「いい顔」でなくとも、いっこうに構わないのである。志賀は、内村の他のキリスト教徒との対立や摩擦、葛藤の原因を宗教的・思想的なものではなく、「我の強い、いい意味で一本調子な先生は少しでも自分と異った信仰を持つようになった弟子はただ出入りすることさえ快く感じなかった」と言っている。しかし、内村の「一本調子」は、成り上がり者のアメリカン・リーグとゲームなんかできるかとワールド・シリーズをボイコットし、ジョージ・バーナード・ショーに「彼の中に正真正銘の素晴らしいアメリカの男を見た」と絶賛されたジョン・マグローに代表される大リーグの監督の一方のタイプのごとく、「おやっさん」と呼ばれてリーダーシップを発揮するようなどこか子供っぽいかわいらしさがある。内村は喜怒哀楽が「一本調子」にはっきりと表にあらわれ、頑固で、偉大に単純である。つまり、志賀は七年もの間内村のもとに通い続けたにもかかわらず、正宗白鳥などとは違って、内村に精神的に依存し、ただ内村を鑑賞していたにすぎなかったのである。
 志賀は、『濁った頭』において、キリスト教との関わりを次のように述べている。
 私は十七歳のときから丁度七年間温順な基督信者だったのです。
 盗む勿れ、殺す勿れ、いつわりのあかしをたつる勿れ。こう云う種々の禁制がありますが、平和な家庭に育った私の身には、こういう掟の大概のものは殆ど何の矛盾も起しませんでした。然し只一つ姦淫する勿れ、この掟だけにはいつもいつも私の暢気な心も苦しめられました。
 基督教に接するまでは私は精神的にも肉体的にも延び延びとした子供でした。運動事が好きで、ベイスボール、テニス、ボート、機械体操、ラックロース、何でも仕ました。水泳では鎌倉から江の島の間を泳いだ事もあります。学校の放課後も雨さえ降らなければ夕方まではきっと運動場で何かしていました。
 この時分は誰も延びる盛りですから年々夏になると単衣は皆あげを下さねば着られないので、母が笑いながらよく愚痴をこぼしたものです。然し学問の方はそれだけに怠けていました。夕方帰って来ると腹が空ききっていますから、六杯でも七杯でも食う。で、部屋に入ればもう何をする元気もない、型ばかりに机には向かっても直ぐ眠って了うと云う有様です。これが当時の日々の生活でした。
 それが基督教に接して以来、全で変って了いました。基督教を信ずるようになった動機と云えば、極く簡単です。自家の書生の一人が大挙伝道という運動のあった時に洗礼を受けたからで、これが動機の総てでしたろう。
 然しそれからの私の日常生活は変って来ました。運動事は総てやめて了いましした。大した理由もありませんがそういう事が如何にも無意味に思われて来たのと、一方にはみんなと云うものと、自分を区別したいような気分も起って来たからです。
 私の往っていた学校は一体に暢気な気風の所でしたが、それでも本郷通を歩いている高等学校生徒の汚い風姿を羨む一団があって、興風会というものを起した事がありました。私も入れる事になって最初の会へ出て見ましたが、その時の決議がこうです。髪の毛を分けてはならぬ。何分以上、カラーを出してはならぬ。学校の往復にはなるべく俥に乗らぬ事。こう云った事です。私はその晩幹事という男に会って退会させて貰うといったのです。校風改良というような事も、今日の決議のような、総て外側から改革して行く求心的の改良法で出来る筈のものではなく、中心に何ものかを注ぎ込んでそれから自然遠心的に改革されるべきものだ。これは或人の社会改良策の演説中にあった句ですが私はそれをいって、遂に脱会して了ったのです。得意でした。これは今まで味った事のない誇でした。当時宗教によって慰安されなければならぬようないたでも何もない私にはこれが宗教から与えられる唯一のありがたい物だったのです。皆の仕ている事が益々馬鹿気て見える。私は学校が済むと直ぐ帰って、色々な本を見るようになりました。伝記、説教集、詩集、こんなものをかなり読みました。以前も読書癖のないと云う方ではなかったのですが、それは皆小説類で、真面目な本は嫌いだったのです。
 暫くはそれでよかったのです。然し間もなく苦痛が起って来ました。性慾の圧迫です。
 この部分を読むかぎり、志賀は内村のキリスト教を真に理解していない。志賀にとって、内村のキリスト教は抽象的すぎ、彼はキリスト教を生活信条としてのみ、もしくは禁制としてのみ感じていたにすぎない。
内村鑑三には祐之という息子がいる。ベース・ボールに熱中して、一高のエース・ピッチャーとして活躍した内村祐之は日本プロ野球のコミッショナーを務めているが、日本人として最初の大リーガーであるマッシー村上をめぐる日米間のトラブルを解決するなど最も優れたコミッショナーとして知られている。さらに、当時東大の神経科の科長だった内村祐之は東大入りを表明し、野球部関係者やOBも念願の東大初優勝をかなえてくれると期待していた「火の球投手」荒巻淳に対して、安吾の『スポーツ・文学・政治』によると、「どうせ東大を卒業しても職業野球に入り、野球で飯を食うべき人なんだから、三年無駄にしないで、今すぐ野球に入ったほうがいい」とプロ入りを勧めている。サウスポーからキレのいいカーブと低目にのびる速球、守備や牽制球の抜群なうまさを武器に荒巻淳は、一九五〇年、設立されたばかりの毎日オリオンズに入団し、そのシーズン、二六勝八敗、防御率二・〇六で最多勝および最優秀防御率のタイトルと新人王に輝き、オリオンズの日本一に貢献し、その後、実働十三年間で登板試合五〇八、一七三勝一〇七敗、防御率二・二三(歴代八位)という素晴らしい記録を残している。一九五五年からブレーブスとバファローズで十一年間活躍し、盗塁王に三度も輝いたロベルト“チコ”バルボンは、「オリオンズのピッチャーの荒巻、ヤな選手やったで。モーションは早いし、牽制球もピカ一やった。彼が投げる時にはランナーに出るのがイヤやったわ。まあよくしたもんで、彼の球は速いしヒットもよう打てんかったわ」と述懐している。しかし、いつもユニフォームがフカブカに見え、「こんな細い体でよく一三年も投手がつとまったものだ」という彼の口癖を証明するかのように、胸部疾患系統の病が原因で四五歳の若さで急逝している。薬物中毒から生じた神経衰弱の治療のため入院していた中、後楽園へプロ野球のゲームを見に内村に連れていかれた安吾は、彼を「一流の人物」と絶賛している。だが、コミッショナーの内村は、オーナーたちに、辞任に追いこまれ、次の言葉を残して、球界を去っている。「医者として患者を一生懸命診断する。しかし、どうしても治らないときは、医者はあえて患者を突き離さなければならない。これと同じ診断をプロ野球関係者に下した」。
I’m worrying everyday
I could be anorexic
I’ll have to get into shape
Can't seem to find the right charge
Your mother she might be a swimmer
Your father must have been a
vaulter
Don’t put me in skates
Ping pong I’m no great shakes
People say I’m weak
Can’t even hold her tight
You’re the star of the poolside
Your streamline curve I can’t
abide
I’ll be a good sport
Be a good sport
I’ll be a sports man
I’m not sleeping these days
Maybe insomniac
Quench my thirst Flesh and Blood
I’ve got this craving for you
Your brother they ca, him Batman
Your sister we know she’s Wonder
Woman
I’m seeing sundays
II could be apoplectic
The whole family gets in shape
Under the floodlights
People tell me I’m not strong
I can’t seem to find the right
charge
I’ll be a good sport
Be a good sport
I’ll be a sports man
(Haruomi Hosono “Sports
Man”)
志賀のように、スポーツをしてキリスト教に傾倒しても、頭の回転が鈍くなり、「濁る」とは限らない。スポーツに明け暮れるため、疲れきってしまい、何もできず、読む本と言えば軽いものだけで、性欲に悩まされ、同性愛に軽く足を踏み入れてしまうということは、男子校や女子校に通うティーンエージャーにはあり得る精神状態にすぎない。
前へ並え
右 向け 右
左 向け 左
休め
気を付け
回れ右
ブルマー
トレパン
トレシャツ
ハチマキ
腕を胸の前に上げて
ケイレンの運動
Raise your arms up your head
Bring them down to shoulder height
Keep them straight and bend your
elbows
Let your arms hang loosely down
With your back turned to the
sunshine
Bend your body from the waist
Swing your arms right and left
And before you know it you'll be
twitching
両手を上げて
その手を横に
第一関節、力を抜いて
体を倒して
左右に振って
もう一つおまけにまた振って
ケイレンの運動
体操 体操 みんな元気に
ケイレン ケイレン
ケイレン ケイレン ……
(Yellow Magic Orchestra “Taiso”)
 その志賀も、他のキリスト教徒らと同様に、内村から離反していくことになる。志賀がそのキリスト教に初めて違和感を覚えたのは、『余は如何にして基督信徒となりし乎』において、若い頃性欲を処理するために「余を駆って自分自身の手の業に慰めを見出さしめるにいたった」、すなわちマスターベーションをしていたと告白した内村から、「姦淫」が「殺人と同程度大きい罪」だと聞かされたときである。志賀にはキリスト教の中で「姦淫」だけが切実な問題となる。志賀にとって、「姦淫」とは異性間の放縦的な性的関係だけを意味しているのではない。「性慾の圧迫」を処理するために、この当時ありふれていた同性愛的恋をしている。同性愛的な恋を含めた姦淫はキリスト教によって初めてタブーになる。性欲に対する禁制を説かれたとき、『小僧の神様』において、神は気紛れで、悪意によって自分を弄ぶものとして描かれているように、志賀は内村のキリスト教に抑圧を感じた。こうして志賀は内村のもとから離反していく。
バート・レイノルズ監督・主演の『ジ・エンド(The End)』(一九七八)に見られるブラック・ユーモアは志賀の嫌味よりもはるかにに健康的である。志賀はいつも自分を人ではなく、神の視点に置こうとする。主人公は、難病によって余命僅かと宣告された患者が自殺しようとするのだが、失敗し、神に自殺はあなたの気をひくためだったと告白する。この日本劇場未公開の傑作ではフランク・シナトラの『マイ・ウェイ』が最も効果的に使われていることも付け加えておこう。こういったユーモアの欠如が日本近代文学のすべてである。神の死を迎えながら、日本近代文学の視点は神のの位置を占めようとする。
 志賀は内村から離れていくが、内村のキリスト教を理論的・神学的・宗教的に理解していたわけではなかったので、内村に対する志賀の反措定は独特のものになる。内村の告白は自己の精神を作用する主体として見なすけれども、志賀の私小説は気分を作用する主体と見なす。つまり、志賀は、内村の告白における作用する主体と作用される客体の図式を受け継ぎながら、その作用する主体を精神から内村においては抑圧されていた気分に転倒したのである。私小説は告白のアイロニーである。内村の場合は神の教えに従うことが道徳であるのに対して、志賀の場合は気分に従うことが道徳となる。志賀の私小説において、主体責任が自己から離れ気分に置かれてしまうために、自己は傷つくことなく、反省が行われる。何が起ころうとも、何一つ自己は根本から変革されることなく、ただ気分の移転を待てばよい。志賀の私小説を宮本百合子などプロレタリア文学の連中が評価したのは、この主体責任のなさである。
 志賀の私小説において、主体と客体は合一していなければ、消滅してもいない。気分が作用する主体とされ、それ以外の自己や世界すべてが客体になったにすぎない。「不快」も存在から現れたかのようであるが、あくまでも気分は意識の表われとして機能している。意識の生きがたさを、無意識的に、存在の問題にすりかえている。
 ニーチェは「快感」と「不快」に関して、『権力への意志』六七四において、次のように述べている。
 この意識のおぼえる快感不快感にしたがって、はたして生存は価値を持つか否かを測 定するということ、これにもまして気狂いじみて逸脱した虚妄が考えうるのであろうか?意識はまさしく一手段にすぎない、−−だから快感ないしは不快感もまたまさに手段にすぎないのである。
 志賀の「不快」も「調和的な気分」も「意識」の「一手段」であり、志賀の作品において気分は作用する主体である。志賀は気分が先にあるかのように書いているが、一つの図式に基づいた原因ではなく結果にすぎない。快や不快を通じて意識に現れでた諸感情は根源的諸事実の随伴現象であり、気分も多くある解釈のうちの一つである。
 志賀の作品では、今まで考察してきたように、気分が物象化されているけれども、これは不健康であるどころか、病的である。『流行感冒』において、こうした病は典型的に具現している。そこで、自分は、二度目の子供に流行感冒がうつらせないために、女中が芝居にいってきて病原菌を持ってきたと思いこみ、その女中にその子を触れさせまいとする。
 ニーチェは、『道徳の系譜』において、西欧の精神史を病気の歴史として次のように述べている。
 あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の作用と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現れから分離して、自由に強さを現したり現さなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの「存在」もない。「作用者」とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎない−−作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃かしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、「力を動かす、力は原因になる」などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。−−あらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、「主体」という魔の取り換え児の迷信から脱却していない。
 病原菌の物象化は、それを作用する主体とすることになる。病的はそうした物象化にほかならない。『濁った頭』においても見られる潔癖性というのはこうした病である。流行感冒のような病は特定の局部的な原因に帰するのではなく、心身の平衡状態が損なわれ、抵抗力が弱まったことによって発病する。病原菌が病の根本原因ではない。それは一原因にすぎない。気分の快=不快は心身の平衡状態が崩れた結果を意味している。病を治すのは根本的には患者自身の治癒力であり、医学的な治療はそれを補助する役割を果たすだけである。
 『流行感冒』に描かれているのは、おそらく差別というものの典型的な様相である。差別は無知といったものによって続くものではない。先に差別というものがある。差別というものは知識を得たとしても、消えないどころか、逆にそれを根拠にして、差別は生きのびていく。「反感」をつねにともなう差別というものは気分・存在の維持・保存にほかならない。
 差別に基づいた志賀の私小説は病である。それは、はしかでも、結核でも、ガンでもなく、「流行感冒」にほかならない。しかし、最も日常的で、絶対的な特効薬がないだけにはるかに厄介である。「流行感冒」には日々の生活に注意して、ただ抵抗力を高めるしかない。ところが、スペイン風邪の流行のように、ときとして多数の人々を死に至らしめるにもかかわらず、われわれはあまりにもそれによくかかり、軽く考えすぎる。おそらくファシズムもこうした「流行感冒」なのだ。
 風邪は、医学的には、風邪症候群と言う。鼻から肺までの空気の通り道、すなわち気道−−特に、鼻、口、喉、咽頭、気管−−の急性炎症の総称を風邪と呼んでいる。風邪は風邪の症状を示す病気の総称である。風邪は一種の伝染病である。別の病気でも風邪に似た症状を示す病気も少なくない。東洋医学では、風邪は邪気が外部から体内に流入することによって起こるとされている。風邪の原因の八割から九割までがウイルスであるが、現在発見されているものだけでも、約二〇〇種類以上あり、インフルエンザ・ウイルスはその一つにすぎない。インフルエンザの危険性を一般にも認識してもらうために、インフルエンザと風邪を別の病気として説明する立場もある。「Influenza (インフルエンザ)」は、もともとは、イタリア語である。インフルエンザ・ウイルスはA型からC型まであり、日本で流行するのはA型とB型である。人の間で流行するのはA型が二つ、B型が一つで、これらが単独で出たり、混合したり、組みあわさったりを毎年繰り返している。日本で流行するインフルエンザ・ウイルスの多くは寒冷で、湿度が低く、乾燥した冬の環境を好むが、中には、夏に流行するものもある。ウイルスの新種が発生するとされている中国南部では、春と秋に小さなピークを持ちながら、年間を通じてインフルエンザがある。豚の体内でヒト型と鳥型が交雑し、新種が生まれるのではないかと見られている。冬になると、空気が汚れ、気温が下がり、乾燥するため、喉や鼻が炎症を起こしやすく、体力が低下して抵抗力が落ちるので、日本では風邪が蔓延する条件がそろう。ウイルス以外の原因としては、マイコプラズマ、クラミジア、細菌性などがある。風邪は、ウイルスが気道の部分に侵入したかにより症状が異なり、それに応じて、大きく四つにわけられる。
 普通感冒は、鼻粘膜に障害が起こったために、くしゃみや水様性鼻水がともなう鼻風邪を指す。急性咽頭炎は喉の痛み、腫れがおもな症状で、扁桃腺炎とも呼ばれている。インフルエンザはインフルエンザ・ウイルスによって季節的に流行する。高熱、頭痛、筋肉痛、関節痛が主な症状である。急性気管支炎はウイルスが気管から気管支にかけて入り、咳や啖が多く出るため、ときには、呼吸困難がともなう。病原体が気管支を通り超して肺胞にまで達すると、肺炎が起こってしまう。マイコプラズマ感染の場合、激しい咳、啖とともに、肺炎を合併することがある。
 風邪は、体力や免疫力を低下させるので、二次感染による合併症を引き起こすことが少なくない。細菌性肺炎や心筋炎だけでなく、もともと患っていた呼吸器系の慢性疾患、腎炎、糖尿病などを悪化させることもある。風邪の治療には安静と栄養補給、水分補給が基本である。発熱も、咳も、できるかぎり、薬によって抑えないほうがいい。発熱は免疫機能が働いているから起こるのであり、病気の状態を知る重要な単位であり、病気が好転しているかどうかや治療の効果の目安になる。ただ熱があると、体力を消耗させやすいので、ある程度までは下げる必要がある。子供の場合、高熱によりぐったりしたり、熱性痙攣を起こすと危険である。ひきつけは突然熱が上がったときだけでなく、急に熱が下がったときにも起こることがある。子供がひきつけをおこしたなら、舌を噛まないように、布巾を巻いたスプーンをかませるとよい。子供においては、少々熱があっても、元気で食欲があれば、問題はない。逆に、老人では、三七度程度でも、肺炎にかかってしまうこともある。咳も同様で、気管の中の異物、分泌物を排出しようとする生理的な反射であるから、むやみにとめてはならないが、体力を消耗させることが著しい場合は、そのかぎりではない。抵抗力の弱い子供や老人には予防ワクチンが効果的である。発熱、頭痛、喉の痛み、くしゃみ、関節炎、筋肉痛、悪寒、鼻水、鼻閉、咳、啖といった不快症状は生態防衛反応である。症状を押さえることは風邪を治すことにはならず、むやみな投薬は、むしろ、長引かせることになりかねない。過剰反応は別だ。
 漢方や薬草療法を含めて投薬は症状だけでなく、患者の体質にも配慮しなければならない。風邪の治療で、発汗させることがあるが、汗をかきやすい人の場合、発汗剤を用いると、汗が出すぎて、逆に、体力を低下させてしまうことにもなる。喉の痛みをともなう風邪−−おもに、夏風邪−−では、発汗法を使っても、喉が汗をかかないために、あまり効果が得られない。風邪薬は二次感染を抑えるためには有効である。また、緑内障患者には、長期的に治療している場合はその限りではないけれども、抗ヒスタミンやベラドンナアルカロイドは視覚障害を引き起こすために使えない。前立腺肥大を抱えている人も同様の薬で排尿障害を起こすので注意がいる。
 全体主義の勃興はスペイン風邪の流行と同時期である。ムンクは『スペイン風邪の後の自画像』を描いている。一九一八年から翌年にかけて世界的にスペイン風邪が流行した。全世界で二千万人から四千万人が犠牲になったと言われ、第一次世界大戦の死者二千万人前後に匹敵する。ギョーム・アポリネール、エゴン・シーレ、クリムトらが亡くなっている。斎藤茂吉も「はやり風はげしくなりし長崎の夜寒をわが子外に行かしめず」と詠んでいる。十数年後、スペイン風邪がインフルエンザによることが判明している。インフルエンザの世界的流行は、その後も、何度か起きている。毎年風邪によると見られる原因で亡くなっている人数は決して少なくない。
 「流行感冒」と同じ流行の構造を持つ全体主義は「反感」に基づいているけれども、ニーチェは、『道徳の系譜』で、「反感」の「反動」を次のように述べている。
 −−道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《反感》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《反感》というのは、本来の《反動》、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《反感》である。すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価眼のこの逆倒−−自己自身へ帰る代わりに外へ向かうこの必然的な方向−−これこそまさしく《反感》の本性である。
 自分の気分に没入するために、ありとあらゆる理由を思いついて、「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を、いかなる残忍な手段を弄しても、攻撃・排除する。志賀の「不快」や「嫌い」は、原因ではなく結果にすぎない。「不快」は自分の存在が脅かされている合図ではなく、ありもしない自分の存在を確保しようとしたことに対する肉体からの警告である。志賀はまったく正反対に解釈している。志賀に認められないのは単純なことである。それは自分の生きてきた世界の外に自分自身とはまったく別の世界があるという誠実な事実である、自分の世界が他の世界によって脅かせることを不愉快に思い、嫌うというのが彼の道徳にすぎない。他の世界から導き出されてきた考えや信条が自分の世界のそれと対立していることすら気づかず、「不快」を放出している。志賀には対他的・対社会的な関係やそこから生ずる摩擦や葛藤、生き方を人間とは何であるのかという根源的なところまで遡って考察し、独自の生き方を創造していこうという精神的創意工夫・成熟は本質的に欠けている。生きることについてまわる当然の苦悩を当然のこととして認められないとすれば、その認識は死を迎え、葬式を待っている。
 中村光夫が述べているように、志賀の作品の世界は「青春」、すなわち思春期のようである。思春期の世界は存在論的いきづまりを露呈する時期であり、そこでは存在論的危機やその諸矛盾までが顕在化してくる。「青春は失われた国だ。そこには不安の道、幻覚の宿屋、苦悩の城、空中楼閣の宮殿、危険な初恋の場所などがある。……幼年時代の最後の坂は、自然にその気むずかしい地方へ傾斜している。破局なく、生きている人たちにとっては、教育が、ものごとに通じた、安全な手になり、徒渉場を指し示し、未知の人に慣れさせる。だが他の人々とにとっては、大きな冒険だ」(イブ・モンタン『頭にいっぱい太陽を』)。思春期の問題を考えるためには、存在論を考え、その克服をしなければならない。思春期に起こる錯覚はかつて気分によって生きられた直接性があり得たということである。母と子の母胎胎内での直接性も、母胎がすでに外界で生きていており、また一度母胎を通じてソフィストケートされていたにすぎないため、直接性は存在したことはない。「青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけなければならない」(吉本隆明『初期ノート』)。
 確かに、われわれは、数字の1と言われると、思わず、工場の煙突が浮かぶように、子供の頃にノスタルジアを感ずる。しかし、それを志賀のような形で感じたとしても不毛である。子供が大きくなって大人になったから苦悩を背負いこんだのではない。そもそも生きることにおいて苦悩はつきものであるにもかかわらず、それを了解できず、生の意欲を忘れてしまうからである。大人が生の苦悩を軽減することに躍起になり、苦悩を減らしてくれるのなら楽しさをも犠牲にしてしまうのに対して、子供は苦悩をとり除くのではなく、それ以上に、生を楽しむことを意欲的に求める。われわれが子供によって嬉しくなるのは自分と同じものだからではない。年をとっていけばいくほど、気分は根強く残っていくけれども、意欲は徐々に失われていくから。意欲は成熟と結びついている。生きることを否定するようなものが残っていくのは、人間が思うようにならない世界の中で生きている以上、生き難さを感じずにはいられないが、その解決策をつねに反動的に過去を追い求めてしまうからである。
 子供のときの気持ちや思いを忘れないようにすることは大切である。しかし、それが子供のままや今までと同じように生きていくことを意味しない。歴史は二度と繰り返し得ない以上、歪みや病が唯一の現実であったということを認めることなしに、現実に対して何も語ることはできない。現実が袋小路にいきづまったとしても、ある状況がもたらしてきた必然的な袋小路である。けれども、これからも行き止まりのこうした状態を続けることはできないのであって、その状態を批判した上で、見方を転回しなければならない。
 森毅は、『青春の自立』において、「青春にはゆらぎのニュアンス」があると次のように述べている。
 つまり、青春とは、なにより新しい自分を見つける年代。そして新しい時代を感ずる年代である。もっとも、感じた時代をドジに表現することがあって、むやみに刃物をふりまわされたらかなわんが、感ずるだけなら若者に分がある。それが青春の十年。自分も時代も固定して考えることはないだろう。
 その青春の時代に青春の自立があるわけだが、それを固定的に考えて、その後の人生を決定すると考えることもあるまい。自立というのは、人生のステージを変えて、新しいステージに立つことだと思う時代も社会も変わるのだから、決まった形が続くとも思えない。それで、なにが青春の自立化というと、家庭という舞台から社会という舞台に移ること。それまでは、親と喧嘩していようと、たとえ親がいなくとも、世界は家庭だった。世界が変われば自分だって変わって当然だ。しかしながらつい、自分の過去を再現してしまう。新しい舞台なのだから、新しい表現でなければなるまいが、本質は変わらないものだ。未来への出発でありながら、未来というものは不確定にゆらぐ。青春のはかなさは、そうした決定と不確定の間にありそうだ。自立という言葉のニュアンスの反対に、青春にはゆらぎのニュアンスがつきまとっていた。
 ことさらに深刻ぶらずとも、ゆらぎながらも青春。
 今までの考えがまったく誤謬であったわけではない。ものの見方というのは仮説であり解釈である。その状況下、生に最も有用であった力を与えるような解釈を真実と思っている。多様な解釈が、日変り定食のように、状況に応じてその都度強い解釈や弱い解釈として中心化してきたにすぎない。必要なのは、真実を否定することではなく、それをこうでしかありえなかったと肯定し、編み変えていくことである。
Come gather 'round people
Wherever you roam
And admit that the waters
Around you have grown
And accept it that soon
You'll be drenched to the bone.
If your time to you
Is worth savin'
Then you better start swimmin'
Or you'll sink like a stone
For the times they are a-changin'.
Come writers and critics
Who prophesize with your pen
And keep your eyes wide
The chance won't come again
And don't speak too soon
For the wheel's still in spin
And there's no tellin' who
That it's namin'.
For the loser now
Will be later to win
For the times they are a-changin'.
Come senators, congressmen
Please heed the call
Don't stand in the doorway
Don't block up the hall
For he that gets hurt
Will be he who has stalled
There's a battle outside
And it is ragin'.
It'll soon shake your windows
And rattle your walls
For the times they are a-changin'.
Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'.
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'.
The line it is drawn
The curse it is cast
The slow one now
Will later be fast
As the present now
Will later be past
The order is
Rapidly fadin'.
And the first one now
Will later be last
For the times they are a-changin'.
(Bob Dylan “The Times They Are A-Changin'”)
 ところが、志賀の青春には「ゆらぎのニュアンス」がまったくない。初期の作品から晩年の作品まで志賀は一貫している。彼の一生はどう長くともクリケットの試合が一回できるにすぎない。志賀直哉の作品においては、気分に没入し、自分の存在を確保することを描いている。志賀の小説の世界は「気分」によって支配され、「不快」に始まり「調和的な気分」によって終わる。このような狭く閉ざされ自己完結的な世界が志賀の世界であり、志賀は一度もその境界に立つことも、その外部に出たこともない。「気分」や好き=嫌いといった具体的なものしか存在できなかった志賀の世界には抽象的なものや社会的な現実、他者といった曖昧で、余分で、不透明なものは入る余地がないほどはっきりとし、閉じられている。志賀の小説作品はわれわれが確かに一度は閉じこめられて生きていたかもしれないある世界を提示しているけれども、志賀は何の示唆もわれわれに与えてはくれない。十七年かけて完成した−−十七年と言えば、長嶋茂雄の現役生活と同じ長さだ!−−『暗夜行路』後編の十四は「永年、人と人と人との関係に疲れ切って了った謙作には此所の生活はよかった」というセンテンスから始まるが、それまで読み続けてきた読み手には「人と人と人との関係」という言葉に首を傾げたくなる。そこに至るまで、具体的な対他関係に関する記述がまったくなされていない。後編八に「彼は甚く弱々しいみじめな気持になるかと思うと、発作的に癇癪を起こし、食卓の食器を洗いざらい庭の踏石に叩きつけたりした。或時は裁縫鋏で直子の着ている着物を襟から背中まで裁ちきったりした事がある。こんな場合、彼ではその時ぎりの癇癪なのだが、直子は直ぐ源を自身の過失まで持っていき、無言に凝っと、忍んでいるのだ。そしてその気持が反射すると、謙作は一層苛立ち、それ以上の乱暴を働かずにはいられなかった」とあるが、こうしたドメスティック・バイオレンスを志賀は、まさか「人と人と人との関係」と呼んでいるわけでもあるまい。「関係」が比喩として使われているととりあえず了解するほかない。いや、これだけ傍若無人な人間ならば、むしろ、愛することはできるかもしれない。なぜならば、彼の前にいると、他の人間をすべて許したくなるからである。比喩とは物事の類似性をとりだす抽象化であるため、抽象的な問題を理解できなかった志賀の作品において比喩が使われることは稀である。唐突に表われる抽象的な言葉−−「放蕩」や「人生」、「関係」など−−がこのようにしばしば比喩として用いられている。しかしながら、中野重治が『「暗夜行路」雑談』において指摘しているように、それらは概念として非常に不明確であり、読み手にイメージを喚起させるものではなく、抽象的な言葉は「逃げの言葉」にすぎない。抽象的な言葉はある行為や状態を示す言葉であり、志賀が抽象的な言葉を「逃げの言葉」に使ったのは、行為を書かないためとしか考えられない。志賀にとって問題だったのは、自分であること、すなわち静的な存在であるから、行為といった活動を書くとき、存在はなくなってしまう。
 小説作品の中で主人公が他の登場人物とのコミュニケーションを本質的に嫌悪しているように、志賀という書き手は読み手とのコミュニケーションを根本的に拒んでいる。読み手のほうが書き手の気持ちを汲んだり、配慮したりしなければ、志賀の小説作品は成立しない。具体的なことを描くことは、坂口安吾の『二流の人』や漱石の『坊っちゃん』のように、十分に文学作品として成り立つのであって、具体的なことを扱っていることではなく、読み手とのコミュニケーションを拒んでいることが、志賀の作品に関する問題点なのである。
 こうした志賀の作品が読み手に示唆を与えないことは、『大津順吉』において、「愛」に関する次のような言い方によってさらに強調される。
 私はいつか、段々に千代を愛するようになって行った。私は不機嫌なときに殊に其事を感じた。不機嫌な時に千代と話をすると、それが直ぐ直る事がよくあったのである。
 志賀には長期的に続く実質がなく、表面的な真剣さだけが鼻につく。『大津順吉』は主人公が女中の千代と結婚しようとするけれども、父の反対にあって別れる羽目になるという小説であるが、そのきっかけは話をしていると不機嫌が直るからその女を愛しているという自覚に基づいている。千代の気持ちについての記述が乏しく、二人のこととして志賀はこの件を考えていない。彼女が気の毒だ。人として見られていない。ここでの「愛」は極めて空虚である。文学作品において、「愛」という言葉がこれほど無内容で、現実感乏しく、空しく使われているケースも珍しい。
中村光夫は、『志賀直哉』において、志賀の小説での恋愛不在を次のように評している。
 こういう極端に男性を中心にしか感受性の働かない作家が男女間の倫理の問題を扱うのは、それ自身無意味なことです。彼がエゴイストだからなどといっても事態は同じことです。なぜならエゴイストにとって倫理的思索の第一歩は相手のエゴをみとめることにあるのですが、志賀直哉には−−そして時任謙作にも−−男女間の問題を生活に即して考える限り、この一番の前提が欠けているのです。
 恋愛は相対的な他者との水平的な関係にのみ成り立ち、新たな自己発見の発展と結びついている。ある人と知り合い、その人と語り、自分自身の生において旧い自分が新しい自分に変っていくことがある。恋愛は弁証法的あるいは永劫回帰的な発展や成熟と切り離せない。志賀にとって、恋愛は難しすぎるのである。
 志賀の道徳が恋愛といった対他的な問題に対しては無力であるのは、「亡き夏目先生に捧ぐ」の献辞がつけられた『佐々木の場合』を読めば、よりいっそう明らかになる。こういうことに関して志賀の説明は一般論に終始するほかない。
 佐々木は今その女の心をさえぎっているのは紋切型な道義心と犠牲心とで、それをとり除く事が出来れば問題は解決すると思っているらしい。そしてその道義心と犠牲心に余りに価値を認めない点が、佐々木も可哀想だが、自分には少しも同情出来なかった。自分もそれらをそう高く価づけはしない。然し佐々木はそれを余りに低く見ていると思った。そして仮令消極的な動機からにしろその女が信じた事を堅く握り締めているその強さに自分はいい感じを持った。佐々木には今の自身の位置を誇る気さえ多少ある。それは無理はない。然し佐々木の妻になることが必ずしもその女の幸福を増す事になるとは自分は考えない。佐々木が或幸福を与えるだろう事は佐々木自身が信じている如く確かかも知れない。然し同時にその女が今持っている或幸福を捨てねばならぬことは確かだ。しかも佐々木には女の今持っている幸福が如何なものかは本統に解っていないと云う気がする。
 自分には何と云っていいか解らなかった。眼前に佐々木の苦しそうな様子を見ると佐々木も可哀想だ。実際佐々木はイゴイストではある。然し決して不愉快なイゴイストではない。自分のした事に責任を負おうとして普通なら三四人も子供のあっていい年まで独身でいて、前を忘れず心からの愛を注ごうとしている。それは悪い感じはしない。然し何しろ女がそれを承知しなければそれはそれまでと云うより仕方がないと思った。然しそうも云えなかった。又そう云ったところでその女の従順な弱い性質を知りぬいている佐々木がそう思えないのは無理なかった。しかも自分には感じられない強さの慾情が彼にはある。自分はそれで、何と云っていいか分らなかった。
 志賀はこの言葉で作品を終えるが、恋愛とはこれから始まる。漱石の『それから』や『こころ』などはここから始まっている。愛するというのは、名詞ではなく、動詞である。そして、愛することによって、一緒になることによって、すべてが満たされるわけもない。愛しあってるからといって、一緒にいるからといって、安心してしまうことなどありはしない。志賀直哉には愛が生と結びつくことなど思いもしない。愛することによって苦しまざるを得ないが、にもかかわらず、なぜかその苦悩をあえてひき受けても全力で愛さざるを得ず、そしてなおかつ現われでた結果をいかなるものであったとしても満足して肯定し、さらにそのことを反芻して生きるというこれだけが恋愛の名に値する。自分の生を自由意志で選ぶことができないのだから、自由意志でその愛をやめることなどできない。この『佐々木の場合』で対立しているのはそれぞれの今の−−活動性を欠いた静的な−−存在要請である。今の存在要請を照らし合わせているかぎり、それはどちらも否定できはしない。今自分があるよりも高いものを求めたり到達しようと人間は思うことなど、つまり、自分の力をよく認識し、つねに自分の最善をつくし、それでもなしとげられないことはそれとして認めることなど志賀には及びもつかないのだ。志賀には動くものはとらえられないのである。このような一般論を主張するために小説が書かれているというのははなはだ疑問であると言わざるを得ない。
 志賀自身は、「あとがき」において、『暗夜行路』の「主題は女の一寸したそういう過失が、−−自身もその為め苦しむかも知れないが、−−それ以上に案外他人を苦しめる場合があるという事を採りあげて書いた」と言っているが、『暗夜行路』の全編にみられるのは、思いあがった主人公が「不快だ」、「不愉快だ」とただわめいているだけで、どう考えても、こんな傲慢な被害者意識が過多な旦那では妻がそういうことに走ってもやむをえないと誰もが見なすと思えるほど、主人公以上に周囲のものたちのほうが彼によって苦しめられている。とても志賀の主張する主題が描かれているとは了解しきれないし、そもそもそういう小説作品を文学と呼ぶことにも躊躇せざるを得ない。
 『大阪の反逆』において、志賀直哉の小説は「文学」ではなく「作文」にすぎないと酷評したそういう健康的な作家の一人坂口安吾は、『志賀直哉に文学の問題はない』において、志賀直哉について次のように述べている。
 志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我欲を構成して示したものだが、この我欲には哲学がない。彼の文章には、神だの哲学者の名前だのたくさん現われてくるけれども、彼の思惟の根底に、ただの一個の人間たる自覚は完全に欠けており、ただの一個の人間でなしに、志賀直哉であるにすぎなかった。だから神も哲学も、言葉を弄ぶだけであった。
 志賀直哉という位置の安定だけが、彼の問題であり、彼の我欲の問題も、そこにいたって安定した。然し、彼が修道僧の如く、我欲をめぐって、三思悪闘の如く小説しつつあった時も、落ちつく先は判かりきっており、見せかけに拘らず、彼の思惟の根底は、志賀直哉という一つの安定にすぎなかったのである。
 彼は我欲を示し肯定して見せることによって、安定しているのである。外国には、神父に告白して罪の許しを受ける方法があるが、小説で罪を肯定して安定するという方法はない。ここに日本の私小説の最大の特徴があるのである。
 神父に告白して安定する苦悩ならば、まことの人間の苦悩ではない。志賀流の日本の私小説も、それと同じニセ苦悩であった。
 だが、小説が、我欲を肯定することによって安定するという呪術的な効能ゆたかな方法であるならば、通俗の世界において、これほど救いをもたらすものは少い。かくて志賀流私小説は、ザンゲ台の代りに宗教的敬虔さをもって用いられることとなった。その敬虔と神聖は、通俗のシムボルであり、かくて日本の知性は圧しつぶされてしまったのである。
 夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定を求める以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかかる祈りは翳すらもない。
 ニセの苦悩や誠意にはあふれているが、まことの祈りは翳だになく、見事な安定を示している志賀流というものは、一家安隠、保身を祈る通俗の世界に、これほど健全な救いをもたらすものはない、この世界にとって、まことの苦悩は、不健全であり、不道徳である。文学は、人間の苦悩によって起こったひとつのオモチャであったが、志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野をひらいたのである。最も苦悩的、神聖敬虔な外貌によって、全然苦悩にふれないという、新発明の健康玩具であった。
 この阿呆の健全さが、日本的な保守思想には政党的な健全さと目され、その正統感は、知性高き人々の目すらもくらまし、知性的にそのニセモノを見破り得ても、感性的に否定しきれないような状態をつくっている。太宰の悲劇には、そのような因子がある。
 然し、志賀直哉の人間的な貧しさや汚らしさは、「如是我聞」に描かれた通りのものと思えば、先ず、間違いではなかろう。志賀直哉には、文学の問題などはないのである。
 志賀は真を描くことを追及したのであろうが、そこには何かを創造しようという意志がない。彼の作品は、最悪の意味において、「日本的な保守思想」にすぎない。フロイトは、一九〇〇年三月二十三日付フリース宛書簡において、「私の気持ちを沈ませるものは、人の助けではどうにもなりません。それは、私の十字架で、私がそれを担わねばなりません。しかし、私の背がこの努力のため、すっかり曲がってしまっているのを神ならぬ誰が知りましょうか」と書いているが、志賀にはこういうせつなる言葉を呟くことすらできない。
 志賀を軸にして文学を考えていると、小説で罪を告白して安定するような方法は文学とはまったく別の次元にあり、文学には「ただの一個の人間たる自覚」が必要だという安吾の意見は注目に値する。「罪を肯定して安定するという方法」によって書くということは、自分を知りたいために、もしくは自分を正当化するために書かれているにすぎず、文学はもっと救いようのないものである。ここに安吾の文学や人間に関するラディカルな問いがある。自分の内面を告げることをするため、告白には一面化を逃れることが困難である以上、苦悩を告白したとしてもそれによって安定してしまうことはない。行為と認識という両義性から人間が逃れることはできない。私小説は一義的であり、そうした両義性を抱えこむことができない。真の苦悩はそうした生きることにどうしようもなくつきまとうものであるが、志賀直哉は、真の世界を描こうとしたにもかかわらず、真の苦悩を体験できるほど生きることを内省したことがない。
 志賀にそうした矛盾を経験する機会がなかったわけではなく、彼は、『流行感冒』において、次のような回想をしている。
 誰が聞いても解らず屋の主人である。つまらぬ暴君である。第一自分はそういう考を前の作物に書きながら、実行ではそのまるで反対の愚をしている。これはどういう事だ。私は自分にも腹が立って来た。
「お父様があんまり執拗くおうたぐりになるからよ。行かない、とあんなにはっきり云っているのに、左枝子を抱いちゃあいけないの何の……誰だってそれじゃあ立つ瀬かないわ」
気がとがめている急所を妻が遠慮なくつッ突き出した。私は少しむかむかしてきた。「今頃そんな事をいったって仕方がない。今だって俺は石のいう事を本統とは思っていない。お前まで愚図々々いうと又癇癪を起すぞ」私は形勢不穏を現す眼つきをして嚇かした。
「お父様のは何かお云い出だしになると執拗いんですもの、自家の者ならそれでいいかも知れないけど……」
「黙れ」
 このとき志賀は自分自身の矛盾を身にひきつけることを経験できるはずである。「第一自分はそういう考を前の作物に書きながら、実行ではそのまるで反対の愚をしている。これはどういう事だ」という突き放しに対して、「自分にも腹が立って来た」と思うのではなく、この自分の行為と認識の差異というものを深化させていくことはできたにもかかわらず、志賀は素通りしてしまう。生きることにおいて、肝心なものに対して「黙」ってしまったのである。「人間の真の天職は自分自身に達することである」(ヘルマン・ヘッセ)。
 志賀は、確かに、「不快」というものに苦しんだことであろう。しかしながら、志賀の「不快」の関心は、ただ「不快」だけが示されその内容が言及されていないように、志賀は志賀直哉ということを、他者とのコミュニケーションをとらずに、自明視しすぎている。むしろ、志賀よりも内村のほうに文学がある。だからこそ、内村は近代日本文学にあれほどの影響力を持ったのである。自然主義や私小説、白樺派は内村に対する注釈として成り立っている。内村は札幌濃学校時代最後まで拒み続けたキリスト教に強制的に入信せられたことによって、それまでの悩みから一挙に解放されていく。自分の行為と認識の断絶に驚かざるを得なかったとき、内村はいかにキリスト信徒となるかという問い、人間とは何だろうかという問いを発せずにはいられない。内村に対して、自己規定に終始した志賀の世界は運動を存在という静止状態にすることによって成立している。また、気分や存在を絶対的な解釈としてしまうとき、残酷な差別といった病が生ずる。気分や存在が批判されなければならないのは、この気分や存在がおそらくすべての差別といったものの根拠となっているからである。
 小林秀雄が影響を受けたアランは、『幸福論』所収の「気で病む男」において、志賀直哉のような男に対して、次のように言っている。
 ほんのちょっとしたことが原因で、せっかくの一日をだいなしにすることがある。たとえば、靴にとげが出ているといった場合だ。こんなときには、なに一つおもしろいことはないし、頭はぼんやりしてうまく働かない。療法は簡単だ。こういう不幸はすべて、着物のように脱ぎすてることができる。われわれはそのことをよく知っている。そして、こういう不幸は、原因を知ることで、今すぐにでも軽減される。ピンの先きに痛みを感ずる乳呑子は、まるでどこかひどく悪いところがあるように、大声をあげてわめき立てる。つまり、乳呑子は原因のことも、療法のことをも考えない。そして時には、泣きさけぶことでぐあいがわるくなり、そのためいっそうひどく泣きさけぶ。これこそ、健康上の病気といわれるべきものだ。これもほかの病気と同じく、本物の病気である。この病気が気で病む、想像的なものだということは、それがわれわれの動揺からつくり出されていること、と同時にわれわれがそれを外的な事柄のせいにしている、という点である。泣きわめくことでみずから苛立つのは、なにも乳呑子ばかりではない。
 人はよく、不機嫌というのは一種の病気で、どうにも手に負えないものだ、という。わたしが最初に、きわめて簡単な運動ですぐにとりのぞくことのできる苦痛や苛立ちの例をふたたび持ってきたのは、そのためである。ふくらはぎがひっつると、どんなしっかりした大の男でも悲鳴をあげることは、だれでも知っている。しかし、足のひらを平らにして地面に押しつければ、立ちどころになおる。ブヨや炭の粉が目に入った場合、こすりでもしようものなら、二、三時間はいやな目にあう。しかし、両手そのままに動かさないで、鼻先をながめていれば、すぐに涙が出てきて不快な目にあわずにすむ。この簡単きわまる療法を知ってから、わたしは二十度以上もためしてみた。これは、はじめから自分の周囲の物事のせいにしないで、まず自分自身に気をつけることが賢明であることの、なによりの証拠である。ひとをみていると、不幸をことさらに好んでいるように見うけられることがあるが、これはある種の狂人たちの場合いっそう拡大される。ここから、なにか神秘的な、と同時に悪魔的な感情を考えることができるだろう。それは想像力にだまされているのだ。自分をひっかいたりするような人間には、それほど深みがありはしない。苦痛を欲することだって少しもありはしない。むしろ、原因を知らないために、動揺と焦燥とが互いに結ばれ合い強め合っているのである。馬から落ちることの恐怖は、落ちまいとして下手にじたばたすることから生ずる。そして、一番わるいのは、じたばたすることで馬をこわがらせることである。そこでわたしは、スキタイ人流にこう結論したい。乗馬の術を心得ている人は、あらゆる知恵、もしくはほとんどあらゆる知恵を身につけている、と。落ちる術さえもである。よっはいは、うまく落ちようなどと少しも考えずに、それでもうまく落ちるのだから、驚く。消防士は、おそれずに落ちることを訓練で身につけているから、みごとなものである。
 微笑は、気分に対してはなんらなすところがなく、効果もないように見える。だから、われわれは少しもそれをやってみようともしない。しかし、礼儀というものは、しばしばわれわれのもとに微笑やしとやかな挨拶をひきよせて、われわれを全く変えてしまうものである。生理学者はその理由をよく知っている。つまり、微笑というものは、あくび同様深く下の方まで降り下り、次々と喉や肺や心臓をゆったさせる。医者の薬箱のなかにだって、こんなにはやく、こんなにうまいぐあいにきく薬はあるまい。ここで、想像力は鎮静作用によってわれわれから苦痛をとり去る。そして、鎮静作用も、想像力が生み出す病気におとらず実在する。また、のんき者らしい格好をする人は、首をすくめることをよく知っている。この動作は、よく考えてみると、肺の空気を入れ換え、あらゆる意味で心をしずめるものだ。あらゆる意味で、というのは、心ということばにはいくつかの意味があるが、心臓は一つしかないからだ。
 これは、まさに、志賀直哉に対する批判である。志賀は。「気で病む男」である。志賀の私小説の主人公は「微笑」から遠く、最も魅力のない表情をしている。こうした「微笑」を欠いた志賀の視点は個人としての人間性に届いていない。人間の認識と行為の間には不透過な部分がつきまとう。そうしたわけもわからない事態に対面した際の人間とは何だろうかという誠実な呟きが、志賀の小説には欠如している。気分を放出するために作品を書いた志賀直哉の私小説はあまりに一義的であり、生きることについて新たな何もつけ加えてはいない。志賀の小説世界は、ユークリッドの定義した点のように、一切の大きさを持っていない。志賀の小説に広がりを求めることはできないけれども、深さや厚みを要求することはできる。気分を描くことによって世界を扱うことは、空気をアルケーとしてコスモロジーを展開した古代ギリシアのアナクシメネスが示しているように、可能である。しかし、それには古代ギリシア人が持つような「正常な子供」(マルクス『経済学批判序説』)としての性質を体現している必要があるけれども、病的な志賀にはそうしたものはまったくない。志賀にとって、よい気分はエピキュリアン的な「愉快」ではなく、「調和的気分」である。志賀の「自分」は個人的存在ではなく、「共同存在」である。志賀は、「実に無駄な」ことを読み手に要求する。近代は神の死を背景にした個人の時代であるが、志賀の私小説には個人がいない。近代日本は神の死を取りやめ、教育勅語に典型的に表われている天皇制イデオロギーによって近代の基礎付けを行っていく。それにあわせて、志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれるようになる。われわれは志賀のようにではなく、むしろ、安吾のように、生きることを望む。たとえ「不快」にとらわれたとしても、われわれは「調和的気分」ではなく、「ただの一個の人間たる自覚」に基づいた「愉快」を欲する。
〈了〉